尤《ごもっと》もでございます、なんとかして早くお帰し申すようにして上げたいと……でも当分は、おうちのつもりで御休息をなさいませ」
家の奥の方でこの時、書物を声高《こわだか》に読む子供の声がします。
「よく勉強していますな。あの子は性質《たち》のよい子じゃ、よく育ててもらいたいもの」
竜之助は、奥の間で本を読んでいる子供の声に耳を澄ましている様子です。
子供は三字経《さんじきょう》を読んでいるものらしい。
[#ここから1字下げ]
「養うて教へざるは父のあやまち
教へて厳ならざるは師のおこたり」
[#ここで字下げ終わり]
というような文句が断続《きれぎれ》に聞えます。
「今はもう、あの子の成人するばかりが楽しみでございます。他国《よそ》へ出る時はお隣りへ預けて参りますが、それでも感心に手習や学問に精を出してくれますから。なに、こんな山家で学問なんぞをと申しますけれど、死んだ良人《つれあい》が、この子はぜひ世間に出してやりたいと申しておりましたものですから」
母もやっぱり、わが子の読書の声を嬉しがって聞《き》き惚《ほ》れています。やがて読書の声が止んで、しばらくして裏口からハタハタと駆け出して来た子供。
「お母さん」
「蔵太郎《くらたろう》かえ」
「ああ」
月見草が咲いた中から、面《かお》を出した六歳ばかりの可愛らしい男の児。
「おじさんもいるの?」
「おじさんもここでお月見を……お前も来てあのお月様をごらん」
お徳はわが子を縁側の方へ麾《さしまね》く。
「月見草がよく咲いてるね」
と言って、子供はその花を一つ※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》る。
「あ、これ、その花を取ってはいけません、それはお前のお父さんが大好きな花なのだから大切にしなくては」
「でも、こんなにたくさん咲いているから一つぐらい」
「一つでもいけません、せっかく、月見草がお月見をしているものを、摘み取るのはかわいそうですよ」
「花が月見をする? それはおかしいね、母さん」
「ごらん、この月見草という花は、日が暮れるとこんなに咲いて、日にあたると凋《しぼ》んでしまうのだから。お月様の好きな花、そうしてお月様に好かれる花」
「坊は、こんな花よりも桜の花や、つつじの花が好きさ」
「お前のお父さんはまたこの花が好きであったのだから、お前も好きにおなり」
「それでは好きになろう、こ
前へ
次へ
全50ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング