》い秋の野路、それを半日も歩いていると、饑《うえ》と疲《つか》れで足が動かない。何というところか、田舎の外《はず》れ、馬子《まご》などの休みそうな一ぜん飯屋の隅で辛《から》くも、朝餉《あさげ》と昼飯とを一度に済ませて、それから中泉と聞いて歩いて行きましたが、少したって中泉はと尋ねてみたら、また横道へ入ったと言われて、もう気を落してしまって、それからは足が動かず、ちょうど見つけたのが八幡《はちまん》の森。その森蔭で休もうとすると、小さいながら人一人を容《い》れて余りある祠《ほこら》。お君はその中へ入って、風呂敷包を抛《ほう》り出してほっと息をついたのでありました。

「お母さん、お母さん」
 お君は悲しさと懐しさで、母を慕うて声をあげた時に、仮寝《かりね》の夢が破れました。夢が破れて見ると、いつのまにか日は暮れかかって、祠の外から、西の海へ沈む夕焼けが赤々として本堂を洩れて、格子《こうし》の透間《すきま》からお君の面《おもて》にまで射し込んでいるので、夢よりはいっそう切《せつ》ないわが身に返りました。
 旅寝の疲れで夢を見て、母を恋い慕うて覚めて見れば、身はひとり寝の祠の中で、外は日暮れの物淋しい夕焼けの色です。
 眼が覚めてもお君は、もうここを立ち去る気にはなりませんでした。荒涼《こうりょう》たる心の中、さすらい尽した魂に射し込む夕焼けの色は、西の空に故郷《ふるさと》ありと思う身にとって、死んでその安楽の故郷に帰れと教えぬばかりの色でありました。
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鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
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 今まで無心で歌っていた歌。
「ああ、死んでしまおう」
 お君はここに初めて死の決心を起しました。
 死の決心がひとたび定まったために、生の重荷がことごとく振い落されてしまいました。
 お君は祠の隅を見廻して破れた太鼓に眼をつけて、それを梁《はり》の下まで転《ころ》がして来ました。
 その太鼓を、梁にかけた下締《したじめ》の下へ置いて、そうして身繕《みづくろ》いをして、その紐《ひも》へ両手をかけた時には、なにかしら涙が溢《あふ》れて来ました。
 その時ちょうど、祠の裏で颯《さっ》と藪《やぶ》をくぐるような物の音。
「あ、誰か来て見つけ出されては恥の上の恥」
 お君は結んだ紐を梁へかけ直して、太鼓の上へ身を載せると、前の扉がガタガタと激しく動いて、地鳴りをするほどに、
「ワン!」
と一声。生命《いのち》を忘れたお君の身にも、どうして、この声は聞き忘れられない声でありました。
「ムクではないか」
 祠の扉を押し開いて飛んで出たお君。
「ムクだ、ムクだ、ムクに違いない」
 何もかも忘れて犬にかじりついてしまいました。
 ここに来たのはムクであります。机竜之助と共に、七里の渡しを渡って熱田から浜松のとっつきまでついて来たムク犬であります。浜松でムクを失った机竜之助は、そこでお絹という女を得て、同時にまた両眼の明《めい》を失いました。
 すでに命を失おうとしたお君は、ここでムクと命とを取り返してしまいました。
「ムクや、お前どうしてここへ来たのだい、どこに今まで何をしていたのだい、よくわたしがここにいることがわかりましたねえ」
 お君はムクの首を抱いてしまって、犬の顔と自分の面《かお》とをピッタリくっつけて嬉泣《うれしな》き、ムクは何も言わず、咽喉《のど》を鳴らし尾を振ってお君のする通りになっています。
「わたしは、お前が古市でお役人につかまって、あの時にもう殺されてしまったものとばかり思っていたのよ、よく逃げられたねえ。それでお前、わたしがこっちへ来たということがわかって、そうしてわたしの後を追って来たのだね、ほんとにお前は神様のような犬だよ。そうしてお前、あの米友さんはどうしたい、あの人の行方《ゆくえ》を知ってるでしょう、話してお聞かせ、いえ、連れてっておくれ」
 ムクが犬でなかったら、この場合に語りつくせぬ物語があるのでしょうけれども、いかに聡明であっても人でない悲しさには、あれから後の話を一言《ひとこと》も語って聞かせることができません。
「お前が来てくれれば、もうわたしは死ななくてもよい、もう一足お前が遅かろうものなら、わたしは死んでしまっていたのだよ、きっとわたしのお母さんが、まだわたしを死なしたくないと思って、そうしてお前を助けによこしたんだね。お前は陸《おか》を来る、わたしは海を来て、この辺で下りようとは思わなかったのに、それをお前が尋ね当てて来るなんて、ほんとうに切っても切れない因縁《いんねん》があればこそでしょう、やっぱりお母さんのことを考えていたから、その引合せに違いない」
 お君はやっとムクの頸《くび》から手を離して、そうして沈み行く夕陽の海の彼方を見て掌を合せて拝みました。
 お君は暫らく西の空を拝んでいましたが、またムクの頸を抱いて、一人で二人分の話をしていました。

 暫らくして、夕焼けも消えてしまい、夜の色が、波の音と一緒に深く押寄せて来るのに気がついたお君は、
「ああ、あんまり嬉しいので、日が暮れたのも忘れてしまった、これから出かけるといったって仕方がないから、今夜はここのお社《やしろ》へ泊めてもらいましょう。ムクや、よく神様にお礼を申し上げて、今夜はここへわたしと一緒に泊めてもらうんだよ」
 命を捨てるはずであった神前で、この不思議なる主従は、相抱いて一夜を明かすことになりました。

         七

 それからのち程経《ほどへ》て、東海道の駅々を、どこで手に入れたか一|挺《ちょう》の三味線を抱えて、東へ下るお君の姿を見ることになりました。そのあとには例のムク犬がついています。
 いつでも問題になるのはお君の容色《きりょう》。雲助、馬方、道中師《どうちゅうし》の連中、これらが遠くから見て悪口を言う分には差支えないけれども、もしいささかでも悪意を持って近寄ろうものならば、眠っていたようなムク犬の眼が鏡のように光ります。垂れていた全身の毛が逆さに立ちます。そうして猛然として唸《うな》りつけます。それですから、さすが荒っぽい者共がお君の傍へ近寄れませんでした。
 朝顔日記もどきの風流な客人が、お君を招《よ》んで歌をうたわせる、お君は以前備前屋でしたように、席へは上らないで、庭でうたいます。
「どうかこの犬も一緒に入れて下さいまし」
 お君が歌をうたう傍へ、ムク犬が来て跪《かしこ》まる。こんなわけで、誰人もついにお君に指一本加えることができない上に、相当の収入《みいり》があって、お君は旅に不自由することなくして東へ下って行くことができました。
 日数《ひかず》いくつか重ねて駿府《すんぷ》の町へ入りました。お君は駿府の二丁目を流して歩くと案外にも多くの収入《みいり》がありましたから、これから二三日は稼《かせ》がなくてもよいと思いました。
「清水港というのへは、これから何里ございましょう」
 駿府の町を出る時に、お君は人にたずねてみました。
「清水へ行かっしゃるなら、本道を行かずに久能山道《くのうざんみち》というのへおいでなさい、左様、久能山の下まで二里、それから清水港まで一里半もあるかね、通して三里にはきついと思えば間違いはありませんよ」
 お君は、それを聞いて喜びました。もうたった三里行きさえすれば清水港、そこに姉妹《きょうだい》のようにしていたお松さんが待っている。

 ようやく清水港の近くへ来た時に、お君はその景色のめざましいことに驚かされてしまいました。
 右の方へは三保の松原が海の中へ伸びている、左の方は薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]峠《さったとうげ》から甲州の方へ山が続いている。前は清水港、檣柱《ほばしら》の先から興津《おきつ》、蒲原《かんばら》、田子《たご》の浦々《うらうら》。その正面には富士山が雪の衣をかぶって立っています。
「まあ、なんという眺めのよいところでしょう」
 お君は立って風景に見とれていました。
 秋の日が右に落ちて、今で言えば四時頃の時でした。船をたずねて波止場《はとば》へ行く道を人に尋ねると、人はよく教えてくれましたから、お君は、その通りに行こうとする時分に、後ろから喧《けたた》ましい蹄《ひづめ》の音。振返って見ると、砂烟《すなけむり》を立てて一頭の駄馬が人を乗せて驀然《まっしぐら》に走って来ます。お君は驚いてその馬を道傍《みちばた》に避けると、馬は人を乗せた上に、また一人の旅人がその轡面《くつわづら》を取って駆けて来るのです。轡面を取っている男は、逸《はや》る馬を引き止めるつもりではなく、それと一緒に走るつもりのように見えました。それはなんとなく穏かでない光景ですからお君は、ムクと一緒に道傍に立って馬の過ぐるのを避けました。それを避けながら、なんの気なしに馬の上を見るとその乗った人。
「あれ、あのお方は」
 お君は眼の前を過ぎて行く馬を見送って、その乗っている人の後ろ姿を伸び上って見ました。黒い着物に黒い頭巾《ずきん》を被っていて、面《かお》の全部を認めるわけにはゆきませんでしたが、それでも通り過ぐる途端《とたん》の印象で思い起したのは、伊勢の大湊の船大工与兵衛の宅で会った盲目《めくら》の武士、幽霊のような冷たい人。
 お君はこう思って馬上の人を見送っておりましたが、あの晩のことを考えると、今でもぞっと水をかけられるようで。今も眼の前を通ったのが、どうもこの世の人ではなくて、やっぱり幽霊が飛んで行ったように思われてなりません。
 この時にムク犬は何を見たかキリリと尾を捲《ま》き上げて、三保の松原の方を向いて前足を揃えました。
「どうしたの、ムク」
 その時、また同じく三保の松原の方から風を切って飛んで来る旅人。その旅人を見ると、ムクが一声吠えて飛びかかります。
「これ、どうしたんだね、人様に飛びかかって」
 お君は身を以てムクの前に立ち塞がる。その隙《すき》を見て旅人は、燕のように急速力で駈け抜けてしまう。これはすなわち七兵衛。
 ムクの力として、お君の抑《おさ》えた手を振り切るのは雑作《ぞうさ》はあるまいが、それでも抑えられた手が主人の手と思ってか、身振《みぶる》いをしつつ七兵衛の駈けて行ったあとを睨んで立っていました。
「なんでお前は、そんなに見ず知らずの人を吠えるのです、今までそんなことはなかったじゃありませんか」
 ムクを促《うなが》して立とうとすると、
「三保の松原で大喧嘩《おおげんか》がある、早く行って見ろ」
 街道で物騒《ものさわ》がしい声。
 喧嘩喧嘩、という人波と一緒に、お君はムクに引かれて三保の松原へと来てしまいました。
「ムクや、危ないから、あまり近くへ行ってはいけないよ」
 そう言いながらも、お君は逸《はや》るムク犬に連れられて人混みの中へ行く。

         八

 ムクが逸るから、それに逐《お》われてお君も人混みの中へ潜《もぐ》り込んでしまいますと、
「おや」
 お君の驚いたのも道理、この人混みの中で槍を構えている人こそ、わが無二の友、宇治山田の米友でありました。もしやと思ったけれども、米友の面《かお》と姿ばかりは見違えようと思っても見違えるわけにゆきません。
「友さんではないか、友さん」
 お君は人を掻き分けて飛び出しました。ムク犬はそれより先に勢いよく米友の傍へ飛んで行きます。その人が米友であったればこそ、お君は白刃の中を頓着する余裕がありませんでした。武士でさえ立入り兼ねる白刃の中へ。
「米友さん、危ない!」
 米友は今、一人の若い武士を相手にして一心不乱に槍を構えているところでありました。その横合いから、お君は米友の身体に飛びついてしまいました。
「や、危ねえ」
 お君に飛びつかれた米友の驚いたおかしな顔。
「米友さん、何をするのだよ。危ないじゃないか、お侍と斬合いなんぞして、怪我《けが》でもしたらどうするんだい、早く謝罪《あやま》っておしまい」
「君ちゃん、どいていな、この侍は若いくせに悪い奴なんだから」
「いけない、お侍様に手向いなぞをしてはいけません」

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