いへん遅くなってしまいました」
お絹の髪も衣裳もかなり崩れている、それを程よくつくろって来たものらしい。
「心配していました」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、お絹の手を取って、やはり囲炉裡《いろり》の一端に坐らせる。
「ひどい目に遭《あ》ってしまいました、あの宇津木兵馬という若い人のために取押えられて虜《とりこ》になるところでしたが、折よく変な男が出て来て助けてくれましたから、やっとこっちへ逃げて来ました」
「村はずれまで迎えの者を出しておきましたはずでしたが」
「その人に、そこまで連れられて来ました。ああ、飛んでもない目に遇ってしまった」
お絹は炉の傍に坐りかけてこの内の模様を見ると、荒れ果てた古寺。
「お寺ですね」
「こんなところでございますが、今晩はここで御辛抱《ごしんぼう》なすって下さいまし」
「お寺とは知らなかった」
「こんなわけでございますから」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は何かと言いわけをする。
「ここへ泊めてもらうのですか」
「へえ、ただいま夜具《やぐ》蒲団《ふとん》を里まで借りにやりましたから」
「ここへ三人で……」
お絹は、なんとなく呆《あき》れたような面色《かおいろ》です。
「いいえ、わっしだけは御免を蒙って……ついこの近所に泊るところがございますから」
「それでは、この方とわたしと二人でこのお寺の中へ……」
「左様でございます、御災難とは申しながら、お気の毒でございます、その代り明朝になりますれば、早速わっしが出向いて参りまして……」
「どうも、こんなところへ泊りつけないから気味が悪いね」
「今夜一晩だけの御辛抱でございます、明日からわっしが御案内を致しまして、やつらを出し抜いて、危なげのない道筋をお連れ申しますから、どうか御安心下さいまし」
「お前さんのためにいろいろお世話になって災難を逃れたのだから、我儘《わがまま》を言っては済みません、それでは今晩はここへ泊めてもらうことに致しましょう」
「そうあそばして下さいまし」
この時、机竜之助は横になって炉辺に仮睡《うたたね》をしていました。
お絹は横になった竜之助の姿をしげしげと見ている。その横顔をがんりき[#「がんりき」に傍点]は盗むようにして見る。
「燈火《あかり》はないのですかねえ」
お絹は襟をすぼめるようにして、ちょいと後ろをふりかえる。
「お燈明皿《とうみょうざら》ぐらいありそうなものだ」
がんりき[#「がんりき」に傍点]は燃えさしの木片《きぎれ》を松明《たいまつ》のようにして本堂の方へ行ってみる、畳の破れへ足がひっかかって転びそうになった途端に、代用の松明が消えかかる。
「おっと危ねえ」
また足を踏み締めて、やっと須弥壇《しゅみだん》の方へ行くと、幸いなことに百匁蝋燭《ひゃくめろうそく》のつけ残りが真鍮《しんちゅう》の高い燭台に残っていたから、
「有難え、南無《なむ》お祖師様」
がんりき[#「がんりき」に傍点]はその蝋燭へ火をつけて帰って来ると、お絹はその光で寺の中を今更のように見廻します。
「それでは、夜具蒲団と、お凌《しの》ぎになるようなものを、そう言っていま持たしてよこしますから」
「どうも御苦労さま」
がんりき[#「がんりき」に傍点]はお絹の横顔を見ながら、扉をガタビシさせて出て行く。あとは寂然《ひっそり》として百匁蝋燭の炎《ほのお》がのんのんと立ちのぼる。
「もし竜之助さん」
お絹は仮睡《うたたね》をしていた竜之助の肩へ手をかけて揺《ゆす》る。
「お起きなさいまし、わたし一人じゃ淋しいから」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]は帰ったか」
「いま出て行きました」
竜之助はまた起き直って柱を背にして坐る。
「飛んだところへ引張り込まれてしまいましたねえ」
「法華寺《ほっけでら》だということだが」
「法華だか門徒だか知らないが、こんなに荒れたお寺も珍らしい」
「拙者故に飛んだ御迷惑をかけて相済まぬ」
「どう致しまして、旅は道づれですから、かえってこんなこともあった方が面白いのですよ」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]が言うには、明日は無事安全な別道《べつみち》を案内するとのことだ」
「夜が明けさえすれば大丈夫。今あの男が夜具蒲団を届けてくれると言いましたが、とてもこんなところで、帯を解いて寝られやしませんから、ここで焚火をしながら今夜は夜通し語り明かしましょうよ」
「それもよかろうが、少しでも休まぬと身体のために悪かろう、拙者にかまわずお休み下さい」
「なあに、一晩や二晩は寝ないでいたって、苦しいことはありません」
お絹は、慣れない手つきをして、炉のあたりに夥《おびただ》しく積まれた木端《こっぱ》や薪を取って火の中へくべました。
柱に凭《もた》れて、うつらうつらとしている竜之助の面色《かおいろ》を見ると、痛々しいほどに悄《しお》れている。いつも悄れているような人で、それで弱い人でもないのだが、今宵は一層悄れているように見える。それでお絹は力をつけてやる気になったのか、またはこの人に滅入《めい》られては、自分が淋しくてたまらないからであるか、つとめて元気らしくして話をしかけます。
「あの宇津木兵馬という人は、年は若いけれども、なかなか腕は出来る人ですね」
「ふむ」
竜之助は軽い返事。
「あの人のお師匠さんが豪《えら》い人ですってね」
「それは豪い」
竜之助の面が上る。
「御存じですか」
「知っている」
「島田虎之助という……」
「そうそう、島田虎之助」
「その先生とお立合をなすったことがおありなさるの」
「ない」
「あなたよりお強いのですか」
「…………」
「あなたの剣術のお流儀は、たしか甲源一刀流でございましたね」
「もとはそうであったが」
「島田先生は直心陰《じきしんかげ》だということではありませんか」
「そう、直心陰」
こう話しかけていると竜之助の面に、ありありと幾筋かの苦悶《くもん》が現われるのであります。
「けれども、その島田先生もかわいそうなことをなさいました」
「かわいそうなこととは?」
竜之助は聞き耳を立てる。
「まだお聞きになりませんか」
「まだ聞かない」
竜之助は、我知らず声がはずむ。
いろいろの人にも会い、いろいろの目にも遭ったけれど、要するに竜之助の眼中に残り、脳裏に留まって去らざるはただその人あるのみ。その人が斯様《かよう》な女から同情の言葉を受けるような身になろうとは――竜之助は、それを聞きたい。
この時また、壊《こわ》れかけた扉がガタリビシリ。
「夜かぶりを持って来ましたが、はあ、御免下せえまし」
男が一人、夜具蒲団と竹の皮包とを持って来てくれたのはそのままにして、話は島田虎之助|最期《さいご》のことにつながりました。
「島田先生は毒で殺されたのでございます、ただの死に様ではございません」
「毒で殺された?」
「病気で亡くなられたように、表面はそうしてありますが、毒殺なのでございます」
竜之助は愕然《がくぜん》として驚く。
「誰が殺した、誰が島田を」
「それは誰だか存じませんが……あまり技《わざ》が出来過ぎますると、自分はそのつもりでなくても、人の恨みが重なりますからね」
「お絹どの、どうして島田がそうなったか、それをそなたがどうして知っている、よく話してもらいたい」
「ちょうどよい折ですから、お話し申しましょう、知っているだけをお話し申しましょう」
お絹は柴《しば》を折りくべて、それを火箸《ひばし》で掻き立てながら、
「あの先生が、或る時、旗本のお邸へ招かれたと思召《おぼしめ》せ、そのお邸で、いろいろ武芸の話が出て、それからお夕飯の御馳走になったのでございます」
「その旗本というのは誰の邸」
「それは申し上げられませぬ、あとで申し上げる時節があるかも知れませぬが、今は申し上げられませぬ」
「それから?」
「島田先生も、大へん御機嫌《ごきげん》がよくて、常よりは御酒《ごしゅ》も過ごしなされ、御料理もよくいただいて、さてその帰りでございます」
「その帰りに?」
「そのお邸でお乗物をと申されたのを、お断わりなすって、今宵はなんとなく心持が面白いから歩いて帰ると、いくらか微酔機嫌《ほろよいきげん》でもあったのでございましょう、伴《とも》をつれずに、たった一人で下谷の御徒町《おかちまち》の方へお帰りになったのでございますよ」
「御徒町の道場へな」
「ちょうどその日に、わたしもまた同じお邸へ上ったものと思召せ、お女中にお花を教えたりしているところへ、島田先生が見えられたのでございます」
「なるほど」
「その日の正客《しょうきゃく》は島田先生で、お相客《あいきゃく》も五六人ほどございました、女中たちはなかなか忙《いそが》しそうだから、わたしのことゆえ、台所の方までも出向いて、差図《さしず》のようなことやお手伝いのようなことをしていますと、お女中がお膳部《ぜんぶ》を次の間まで持って行った時、そこの御主人が、まだ座敷へ出してはいかぬ、そこへ置けと女中たちに言いつけて、それから、島田の膳部はどれだどれだと念を押して尋ねていたのを、わたしが聞きましたが、やはりその時は何の気もつきませんでした」
「はて」
「それから、わたしは奥へ行って、また台所の方へ出ようとして、そのお膳部を差置いた間《ま》の外を通りますと、誰も女中がいないのに御主人が一人でいらっしゃる、その時も、やっぱり何の気もつかなかったのでございますが、わたしが通りかかるとその御主人が、あわてたような素振《そぶり》でついと立ったのが、そのとき少しおかしいとは思いましたが、それとても大して気には留めませんでした」
「うむ」
「それからお座敷では武芸のお話で持ち切りのようでした、料理が運ばれたりお酒が運ばれたりして、大へん陽気になりましたが、それでもほかのお客の時よりは、静かな席でありました。それから、わたしが廊下を渡ってお池の傍を通りますと、お池の中の金魚が三つばかり死んでいて、緋鯉《ひごい》が一つ死にかけて腹を上にしておりました」
「…………」
「それも別に深く気にしたわけでもありませんが、あれ金魚が死んでいると、ちょうど通りかかりの女中に言いますと、女中たちは物見高《ものみだか》いから、忽《たちま》ち二三人集まって、金魚|評定《ひょうじょう》が始まりました、猫にひっかかれたんだろうというものや、いいえ烏が飛んで来ていたずらをしたのに違いないというもの、そうではない狆《ちん》がお池を掻《か》き廻したからだというもの、なかには、毒を飲まされたんだ、金魚が毒を飲まされたと言い出したものさえありましたが、それは笑い物にされてしまって、毒なんてそんなものがこのお邸のどこにあるの、お嗜《たしな》みなさいよと言われて、毒と言い出した女中は、面を真赤にして文句に詰ってしまいましたのを、後でわたしは思い出してゾッとしました」
「…………」
「そうしているうちに、そのお池ではいちばん大きな真鯉《まごい》、二尺もあろうというのが、眼の前で、ピンと水を切って飛び上りましたから、女中たちもみんな驚きました、わたしも驚きました」
「…………」
「鯉の跳《は》ねるのはなにも不思議はないが、常の跳ね様とは違って、一跳ね跳ねてから、それがクルクルと水の中を舞ってもがき苦しむのです、そりゃ見ていても凄《すご》いほどでございました。なんしろ鯉はほかの魚と違って、俎《まないた》の上へ載せられても、三十六|鱗《りん》ビクともせぬという、人間で言えば男の中の男、それが苦しがって器量いっぱいもがき苦しむのですから、そりゃ見ていても凄くなります」
棚を走る鼠としては温和《おとな》しいと思うと、外ではこの時分から、時雨《しぐれ》が古寺の屋根を濡らしている。
古寺の軒端《のきば》からも玉雫《たまだれ》が落ちて瓔珞《ようらく》の音をたてる。外はしめやかな時雨。柴の乾きがよいので、炉では焚火の色が珊瑚《さんご》を見るよう。お絹は飽かずに語りつづける。
「どうして、烏がいじめたり、狆《ちん》がちょっかいを出したりするくらいのことで、こんなこ
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