殿様《せんとのさま》の墓はこの浜松の西来院《さいらいいん》にあって、そうしてこの浜松の城下はお絹の故郷でありました。
 伊勢参りから帰り、お絹はそのお墓参りをしてここに逗留《とうりゅう》することも久しくなりました。
「危ない、女の身で、引込んでいさっしゃれ」
「そんなことをおっしゃらないで、お待ち下さいまし」
 お絹は竜之助と浜松藩の武士の間へ身を以て入り込んでしまいました。
「さきほどから拝見致しておりますれば、ほんに詰《つま》らない行きがかり、殿方が命のやりとりをなさるほどのことでもござんすまい、女の身で出過ぎたことでござんすが、ただ通りがかりの御縁、どうぞこの場はお任せ下さいまし。それとも喧嘩をなさるなら、このわたくしをお斬りあそばして、それから後になさいまし。女をお斬りあそばしたところでお手柄にもなりますまい、どうかお任せ下さいまし」
 そこへ一座のうちの老巧連が飛んで来て、
「いや、おのおの方も大人げない、旅の者一人を相手にして、勝っても負けても手柄にはなるまい、あとは拙者共に任せるがよい」
 そこでこの喧嘩は、無事に引分けとなってしまいました。
 竜之助はそのうちに、消えてなくなるようにさっさと明神の社内を出てしまいました。
 続いて社前を出たお絹、しばらく竜之助の後ろ姿を見送っていましたが、伴《とも》の女中を呼んで、
「お前、あの虚無僧さんを追いかけて、わたしの家へ来るように言っておいで、丁寧《ていねい》にそう言って、一緒にお連れ申しておいで、もし聞かなかったら、どちらへおいでなさるのですかといって、その行先を尋ねてごらん、それも言わなかったら、どこへ泊るかそれを見届けておいで」

         二

 その晩、机竜之助とお絹とは、西来院の傍《かたわら》なる侘住居《わびずまい》で話をするのが縁となりました。
「どちらかでお見かけ申したように思いますよ」
 二人の間には火鉢があって、引馬野《ひくまの》を渡って来る夜風が肌寒いから、竜之助は藍木綿《あいもめん》の着衣の上に大柄《おおがら》な丹前《たんぜん》を引っかけていました。
「江戸へ帰ろうと思う」
 まぶしそうな眼をして、独言《ひとりごと》のように言う。
「お急ぎではござんすまい」
「別段に急ぎもせぬが」
「それでは、こちらに御逗留なさいませ、わたしも江戸へ帰ろうか、それともこちらで暮そうかと考えているところでございます」
「急ぐ旅でもないが……」
「そうなさいまし……江戸から来てみると、どうも淋しいこと、御覧の通り。ここは浜松も城下を西北に外《はず》れておりまして、わけてこの近所はお寺が多いものですから、夜などは墓場の中にいるようなもので、自分ながら、たとえ三日でも、よくこんなところに辛抱ができるようになったかと感心しているのでございます、もう女も、こうして淋しいところが住みよくなるようでは廃《すた》りでございますね」
 吉田通れば二階から招く、しかも鹿《か》の子《こ》の振袖で……というのは小唄にあるが、これは鹿の子の振袖ではない、切髪の被布《ひふ》の、まだ残んの色あでやかな女に招かれたこと。
 竜之助は、不思議な女だとも思い、旅の一興とも思う。
 その夜はこの女と共にさまざまの物語をして後、十畳の一間へ床を展《の》べてもらって竜之助は寝る。
 その夜、どうしたものか竜之助の頭がクラクラとする。ガバと褥《しとね》を蹴《け》って起き上る。
 秋草を描いた襖《ふすま》が廻り舞台のように動き出す、襖の引手が口をあく、柱の釘隠《くぎかく》しが眼をむく。
 蒲団《ふとん》の上に坐り直した竜之助は、声を立てようとして舌が縺《もつ》れる。
「まあ、どうかなさいましたの」
 その声で竜之助は眼を見開いてホーッという息。
「大へんな魘《うな》され方ではありませんか」
 再び眼を見開いたつもりであったが眼に力がありません。蒲団の上から差覗《さしのぞ》いていたのはお絹でありました。
「夢でもごらんになったのですか、お冷水《ひや》でもあがって、気をお鎮めなさいまし」
 枕許《まくらもと》にあった水指《みずさし》から、湯呑に水をさしてお絹が竜之助の手に渡しました。顫《ふる》えた手で竜之助はその湯呑を受取ろうとして取落す。
「おやおや、水をこぼして」
 お絹は困って、片手で何か拭《ふ》くものを探そうとしました。竜之助は、またその湯呑を取り直そうとしました。その二人の手が重なり合った時に、ハッとしてそれを引込ませました。
「気が落着いたら、ゆっくりお休みなさい、まだおかげんが悪ければ女中を起しましょう」
「いや、もう大丈夫、お世話になって相済まぬ」
 お絹は竜之助が落着いたのを見て、自分の寝床へ帰ってしまいました。
 竜之助の感はいよいよ冴《さ》えて眠れません。
 眠れないでいると、一間隔てた次の間で、すやすやとお絹の寝息が聞えます。軽い寝息、吐いて吸う軟《やわ》らかな女の寝息、すういすういと竜之助の魂に糸をつけて引いて行くようです。ややあって寝返りの音。
 髪の毛が枕紙《まくらがみ》に触《さわ》る。中指《なかざし》が落ちたような、畳に物の音、上になり下になり軟らかい寝息。
「眠れぬ、眠れぬ、由《よし》ないところへ泊った」
 竜之助は反側する。にわかに寝息が低くなって、そして聞えなくなる。枕許の水を、手さぐりにしてまた一口飲んでみる。
 途絶《とだ》えた寝息がまたすやすやと聞える。
「ああ」
 懊悩《おうのう》した竜之助は、太い息を吐いて仰向けに寝返ると、お絹の寝間で軽い咳《せき》がする。
「眼が覚めたのかな」
 枕許へ何か掻き寄せるような畳ざわりの音。お絹も、どうやら眼が覚めたらしい。
 夜具を掻きのけたかと思われる様子で、やがてキューキューと帯を手繰《たぐ》るような音。竜之助の頭は氷のように透きとおる。
 襖が開く、衣《きぬ》ずれの音。
「眠れますか。眠れますまいねえ」
 襖の蔭から半身が見える、白羽二重《しろはぶたえ》に紗綾形《しゃあやがた》、下には色めいた着流し。お絹は莞爾《にっこ》としてこっちを見ながら、
「わたしも眠れないから、お邪魔に来ましたよ、こんな永い秋の夜を一人で寝飽きるのもつまりませんからねえ。わたしの方へおいでなさいまし、面白いお話を致しましょうよ」
 竜之助は悽然《せいぜん》として、この女の大胆なのに驚いたが、驚いて見れば何のこと、それはやっぱりあらぬ妄想、感が納まって夢に入りかけた瞬時の幻覚に過ぎないで、一間へだてた次の間では、お絹の寝息がいよいよ軟らかく波を打つ。
 その夜は明けて、翌朝になると、竜之助の眼が見えなくなりました。

         三

 机竜之助が東海道を下る時、裏宿七兵衛《うらじゅくしちべえ》はまた上方《かみがた》へ行くと見えて、駿河《するが》の国|薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]峠《さったとうげ》の麓の倉沢という立場《たてば》の茶屋で休んでいました。ここの名物は栄螺《さざえ》の壺焼《つぼやき》。
「お婆さん、栄螺の壺焼を一つくんな」
 蜑《あま》が捕りたての壺焼[#ママ]を焼かせて、それをうまそうに食べていると、
「御免よ、婆さん、壺焼を一つくんな」
 七兵衛と向い合いに腰をかけた人。銀ごしらえの脇差《わきざし》を打込《ぶっこ》んだ具合、笠の紐の結び様から着物の端折《はしょ》りあんばい、これもなかなか旅慣れた人らしいが、入って来ると笠の中から七兵衛をジロリと見ました。
「婆さん、いくらだね」
 七兵衛は壺焼の代を払おうとします。
「六十文いただきます」
「ここへ置くよ」
 七兵衛は百文ばかりの銭《ぜに》を抛《ほう》り出して出ると、
「婆さん、いくらだえ」
 銀ごしらえの脇差も同じように壺焼の価《あたい》を聞く。
「四十文でよろしゅうございます」
「ここへ置くよ」
 同じく百文ばかりの金を投げ出してこの男が出たのは、七兵衛がもう薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]峠の上りにかかろうとする時分でありました。
 幸いに晴れていて、富士も見えれば愛鷹《あしたか》も見える。伊豆の岬、三保の松原、手に取るようでありますが、七兵衛は海道第一の景色にも頓着なく、例の早足で、すっすと風を切って上って行く。
 七兵衛をやり過ごして、同じ栄螺《さざえ》の壺焼屋から出た旅の男は、これもすっすと風を切って上って行く。七兵衛も足が早いがこの男も足が早い。みるみる七兵衛に追いついてしまいました。
「どうも結構なお天気でよろしゅうございますな」
 お愛想《あいそう》を言って、つと七兵衛を通り抜いてしまう。
「へえ、よいお天気で……」
と七兵衛は返事をしたものの、さっさと自分を抜いて行く銀ごしらえの男の歩きぶりを見ると癪《しゃく》に触《さわ》りました。この俺を抜いて歩く奴、小面《こづら》の憎い振舞をしたものかな、よしそれならばこっちにも了簡《りょうけん》があると、七兵衛は足に速力を加えて歩くと、見るまにまた銀ごしらえの脇差を追い抜いてしまいます。
「どうもお天気がようがすな」
 七兵衛は、銀ごしらえの脇差を尻目《しりめ》にかけて通ると、
「へい、よいお天気で……」
 その男もまた、負けない気で足に馬力をかけました。
 二人は、ついに雁行《がんこう》して歩き出してしまいました。
 七兵衛は、妙な奴だと思うから別に言葉もかけず、そうかと言ってこうなると抜かれるのも癪だから、ずんずん歩いて行くと、その男もまた口を結んで七兵衛と押並ぶようにして歩いて行く。
 はて、今まで旅をしたが、こんな奴に会ったことがない、別に怖《こわ》いことも気味の悪いこともないが、足の早いのが癪だ、そうして、自分に足で戦いを挑《いど》むような仕打ちがいよいよ癪だ。
 しかし、いよいよ峠を下り切るまでこの男は、七兵衛より後にもならず先にもならず、ほとんど相並んで歩いて来たが、ほら[#「ほら」に傍点]村へ出ると身延道《みのぶみち》。
「旦那、私はここで失礼を致しますよ、はい、身延へ参詣に参りますもので」
 七兵衛に挨拶して法華題目堂《ほっけだいもくどう》から右、身延道へ切れてしまいました。

 七兵衛は、興津《おきつ》の題目堂で変な男と別れてから、東海道を少し南へ廻って、清水港《しみずみなと》へ立寄り、そこで小半時《こはんとき》も暇をつぶしたが、今度は久能山道《くのうざんみち》を駿府《すんぷ》へ出て、駿府から一里半、鞠子《まりこ》の宿《しゅく》もさっさ[#「さっさ」に傍点]と素通《すどお》りをして上へ上へとのぼって行くのでしたが、ちょうど、鞠子の宿の池田屋源八という休み茶屋の前を通りかかると、
「もしもし、それへおいでなさる旅の旦那へ」
 茶屋の中から言葉をかけたものがあります。
「エエ、お呼びなさいましたのは?」
 七兵衛ふりかえると、店先でとろろ汁を食べているのは、薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]峠《さったとうげ》で競争をしかけた、銀ごしらえの変な男。
「これはこれは」
 さすがの七兵衛も、少し面喰《めんくら》って立ち止まると、
「まあ、おかけなさい、ここは名物のとろろ汁、一つ召し上っておいでなさいまし」
「お前さんは身延へ行くとお言いなすったが……」
「ええ、身延へお参詣をすましてその帰り路なんでございます」
「冗談《じょうだん》じゃねえ」
「へへ、それは冗談でございます、身延へ行くつもりでしたけれども、途中でまた気が変ったものでございますから」
「そうだろう、それでは俺《わし》もひとつ、とろろ汁をいただきましょう」
 身延へ切れたのは嘘《うそ》、やっぱりこの変な男も上《かみ》へのぼって行くものでありました。それにしても早い、自分がちょっと清水港で用を足している間に、本街道を早くもかけ抜いて、ここでとろろ汁を食っているのだから、七兵衛もなんだか一杯食わされたような気持がするのでありました。
「これから名代《なだい》の宇都谷峠《うつのやとうげ》へかかるのでございますから、草鞋《わらじ》でも穿《は》き換えようじゃあございませんか」
「そうしま
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