し。お絹は莞爾《にっこ》としてこっちを見ながら、
「わたしも眠れないから、お邪魔に来ましたよ、こんな永い秋の夜を一人で寝飽きるのもつまりませんからねえ。わたしの方へおいでなさいまし、面白いお話を致しましょうよ」
竜之助は悽然《せいぜん》として、この女の大胆なのに驚いたが、驚いて見れば何のこと、それはやっぱりあらぬ妄想、感が納まって夢に入りかけた瞬時の幻覚に過ぎないで、一間へだてた次の間では、お絹の寝息がいよいよ軟らかく波を打つ。
その夜は明けて、翌朝になると、竜之助の眼が見えなくなりました。
三
机竜之助が東海道を下る時、裏宿七兵衛《うらじゅくしちべえ》はまた上方《かみがた》へ行くと見えて、駿河《するが》の国|薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]峠《さったとうげ》の麓の倉沢という立場《たてば》の茶屋で休んでいました。ここの名物は栄螺《さざえ》の壺焼《つぼやき》。
「お婆さん、栄螺の壺焼を一つくんな」
蜑《あま》が捕りたての壺焼[#ママ]を焼かせて、それをうまそうに食べていると、
「御免よ、婆さん、壺焼を一つくんな」
七兵衛と向い合いに腰をかけ
前へ
次へ
全117ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング