お絹様とやらおっしゃいましたな、あの御新造をがんりき[#「がんりき」に傍点]がいただきてえんでございます」
「ナニ?」
「お恥かしい話だが、先生が、あんな御新造に侍《かしず》かれて道行《みちゆき》をなさるのを見ると、疳《かん》の虫がうずうずしてたまりませんや。もとより金銀に望みはねえ、腕ずくでは敵《かな》わねえから、ここは一番、色気を出し、先生とあの御新造を張り合ってみてえというのが、このがんりき[#「がんりき」に傍点]のやまなんでございます。なんと、どうでございましょう、きれいにあの御新造《ごしんぞ》をがんりき[#「がんりき」に傍点]にくれてやっておくんなさるか、それとも、女にかけてはどっちの腕が強いか、思うさま張り合ってみようではございませんか」
 これを聞いて竜之助は、
「あの女が欲しいのか」
 竜之助は刀を差置きながら、
「女というものは水物《みずもの》だから、欲しければ取るがよかろう。しかしあの女は、感心に拙者を江戸まで送ってくれようという女だから、向うで捨てぬ限りは、こちらでも捨てられぬ。それはそうと、もはやここへ尋ねて来るはずではないか」
「ええ、もうやがて尋ねておいでなさるはずでございます、迎えの者を村はずれまで出しておきましてございますから」
「そうか、それからながんりき[#「がんりき」に傍点]、あの女が来たらば……」
 竜之助は、まだ刀を膝から下へは卸《おろ》しきらないで、言葉が少しく改まる。
「へえ、何でございますか」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]はやはり用心をしながら返事。
「幸いのこと、お前に頼みがある」
「頼みとおっしゃいますのは」
「お前に望みがあるならば幸いのこと、これからあの女を連れて江戸まで下ってもらいたいのじゃ」
「何とおっしゃいます、わっしにあの御新造様をお江戸までお連れ申せとおっしゃるのでございますか。そうしてあなた様は?」
「拙者は、ひとりで行きたい方へ行く」
「こりゃ驚きました、そういうことはできません、そんな不人情なことはできませんな」
「不人情?」
 竜之助は苦笑《にがわら》いしながら、
「お前は、あの女が欲しいと言うたではないか、それだによってあの女を連れて江戸へ行くことがなんで不人情だ」
「だって先生、先生はお目が御不自由なんでございましょう、それを見捨てて、二人で駈落《かけおち》をするなんぞということは、このがんりき[#「がんりき」に傍点]にはできませんな」
 逃げ腰になっていたがんりき[#「がんりき」に傍点]が、腰を落着けて言葉に力を入れる。
「いや、拙者は拙者で別にまた道がある、実はふとした縁であの女の世話になったが、心苦しいことがある、それで離れようと思うていたが、ちょうど幸い、お前が横合いから欲しいというによって、お前に任せたい」
「そりゃいけません」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は首を左右に振り、
「それじゃあ事に面白味がありません、からっきり張合いにもなんにもなるもんじゃあございません、人のお余り物をいただくような心で、女をもの[#「もの」に傍点]にしてみようというような、そんながんりき[#「がんりき」に傍点]とはがんりき[#「がんりき」に傍点]が違います」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は力《りき》み返る。竜之助は苦笑《にがわら》い。この小賢《こざか》しい小泥棒め、おれに張り合ってみようというのでさえ片腹痛いのに、死んだ肉は食わないというような一ぱしの口吻《くちぶり》。刀の錆《さび》にするにも足らない奴だがよい折柄《おりから》の端役《はやく》、こいつに女のいきさつをすっかり任せてしまえば、女の絆《ほだし》から解かれることができる。竜之助はこうも思っているらしい。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]はそれと知るや知らずや、
「女というものは、上手に拵《こしら》えるよりも上手に捨てるのが本当の色師だ、いい幸いでお譲りを受けて、持余《もてあま》し物《もの》をおっつけられて、それで色男で候《そうろう》と脂下《やにさが》っているには、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、こう見えても少し年をとり過ぎた、そんな役廻りは御免を蒙《こうむ》りてえ」
 少しく声高《こわだか》になって、ふいと気がついたように、
「やれやれ、根っから詰らねえ痴話《ちわ》でたあいもねえ、それは冗談でございますが先生、こんなことも他生《たしょう》の縁とやらでございましょうから、これからわっしどもも先生と御新造のお伴《とも》をして、江戸まで参りましょう、道中ずいぶん忠義を尽しますぜ」
 この時、破《こわ》れた扉がガタリという。
 扉がガタガタと動いたかと思うと、そこへ身を現わしたのはお絹でありました。
「やあ、これは御新造様」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は迎えに出る。
「どうもた
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