激しく動いて、地鳴りをするほどに、
「ワン!」
と一声。生命《いのち》を忘れたお君の身にも、どうして、この声は聞き忘れられない声でありました。
「ムクではないか」
祠の扉を押し開いて飛んで出たお君。
「ムクだ、ムクだ、ムクに違いない」
何もかも忘れて犬にかじりついてしまいました。
ここに来たのはムクであります。机竜之助と共に、七里の渡しを渡って熱田から浜松のとっつきまでついて来たムク犬であります。浜松でムクを失った机竜之助は、そこでお絹という女を得て、同時にまた両眼の明《めい》を失いました。
すでに命を失おうとしたお君は、ここでムクと命とを取り返してしまいました。
「ムクや、お前どうしてここへ来たのだい、どこに今まで何をしていたのだい、よくわたしがここにいることがわかりましたねえ」
お君はムクの首を抱いてしまって、犬の顔と自分の面《かお》とをピッタリくっつけて嬉泣《うれしな》き、ムクは何も言わず、咽喉《のど》を鳴らし尾を振ってお君のする通りになっています。
「わたしは、お前が古市でお役人につかまって、あの時にもう殺されてしまったものとばかり思っていたのよ、よく逃げられたねえ。それでお前、わたしがこっちへ来たということがわかって、そうしてわたしの後を追って来たのだね、ほんとにお前は神様のような犬だよ。そうしてお前、あの米友さんはどうしたい、あの人の行方《ゆくえ》を知ってるでしょう、話してお聞かせ、いえ、連れてっておくれ」
ムクが犬でなかったら、この場合に語りつくせぬ物語があるのでしょうけれども、いかに聡明であっても人でない悲しさには、あれから後の話を一言《ひとこと》も語って聞かせることができません。
「お前が来てくれれば、もうわたしは死ななくてもよい、もう一足お前が遅かろうものなら、わたしは死んでしまっていたのだよ、きっとわたしのお母さんが、まだわたしを死なしたくないと思って、そうしてお前を助けによこしたんだね。お前は陸《おか》を来る、わたしは海を来て、この辺で下りようとは思わなかったのに、それをお前が尋ね当てて来るなんて、ほんとうに切っても切れない因縁《いんねん》があればこそでしょう、やっぱりお母さんのことを考えていたから、その引合せに違いない」
お君はやっとムクの頸《くび》から手を離して、そうして沈み行く夕陽の海の彼方を見て掌を合せて拝みました。
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