お君は暫らく西の空を拝んでいましたが、またムクの頸を抱いて、一人で二人分の話をしていました。

 暫らくして、夕焼けも消えてしまい、夜の色が、波の音と一緒に深く押寄せて来るのに気がついたお君は、
「ああ、あんまり嬉しいので、日が暮れたのも忘れてしまった、これから出かけるといったって仕方がないから、今夜はここのお社《やしろ》へ泊めてもらいましょう。ムクや、よく神様にお礼を申し上げて、今夜はここへわたしと一緒に泊めてもらうんだよ」
 命を捨てるはずであった神前で、この不思議なる主従は、相抱いて一夜を明かすことになりました。

         七

 それからのち程経《ほどへ》て、東海道の駅々を、どこで手に入れたか一|挺《ちょう》の三味線を抱えて、東へ下るお君の姿を見ることになりました。そのあとには例のムク犬がついています。
 いつでも問題になるのはお君の容色《きりょう》。雲助、馬方、道中師《どうちゅうし》の連中、これらが遠くから見て悪口を言う分には差支えないけれども、もしいささかでも悪意を持って近寄ろうものならば、眠っていたようなムク犬の眼が鏡のように光ります。垂れていた全身の毛が逆さに立ちます。そうして猛然として唸《うな》りつけます。それですから、さすが荒っぽい者共がお君の傍へ近寄れませんでした。
 朝顔日記もどきの風流な客人が、お君を招《よ》んで歌をうたわせる、お君は以前備前屋でしたように、席へは上らないで、庭でうたいます。
「どうかこの犬も一緒に入れて下さいまし」
 お君が歌をうたう傍へ、ムク犬が来て跪《かしこ》まる。こんなわけで、誰人もついにお君に指一本加えることができない上に、相当の収入《みいり》があって、お君は旅に不自由することなくして東へ下って行くことができました。
 日数《ひかず》いくつか重ねて駿府《すんぷ》の町へ入りました。お君は駿府の二丁目を流して歩くと案外にも多くの収入《みいり》がありましたから、これから二三日は稼《かせ》がなくてもよいと思いました。
「清水港というのへは、これから何里ございましょう」
 駿府の町を出る時に、お君は人にたずねてみました。
「清水へ行かっしゃるなら、本道を行かずに久能山道《くのうざんみち》というのへおいでなさい、左様、久能山の下まで二里、それから清水港まで一里半もあるかね、通して三里にはきついと思えば間違いはありませ
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