悪者ではないが、亭主は酒が好きで、よく夫婦喧嘩をする。身体が癒ってみると、いつまでもこんなところに厄介になっていることは心苦しい上に、漁師夫婦は、若山丸の船頭からお君のためといって相当の手当を貰っているくせに、それは遣《つか》い果して今度は、お君の持っているいくらかの用意に眼をつけ出し、それにまた酒の上で、この亭主が年甲斐《としがい》もなくお君の仇《あだ》な姿を見て、へんなことを言い出し、それを山の神が疑ぐり出して、喧嘩が始まる、子供が泣き出す、近所隣りが仲裁に来るという騒ぎですから、お君はとうとう五日目に、居堪《いたたま》らなくなってここを逃げ出しました。
 お君の心では、お松に言われた通り駿河の国|清水《しみず》の港まで尋ねて行く覚悟でありました。
 家の者が寝静まった頃を見計らって、宵《よい》のうちから用意しておいた手荷物を取纏《とりまと》め、草履穿《ぞうりば》きでこの漁師の家の裏口から首尾よく忍び出てしまいました。
 家を駈け出すと浜辺の広い原、宵の明星《みょうじょう》が高く天神山というのから東へ外《はず》れて光っている。まばらに見える漁師の家の屋根、どこでもまだ竈《かまど》の烟《けむり》を上げているところもありません。暁とは言いながら、星をたよる闇夜《やみよ》と同じことで、お君はそこを一生懸命で、順路はここから北へ国安川《くにやすがわ》というのに沿うて行き、掛川《かけがわ》の宿へ出て、東海道本道に合するということを聞いていましたから、その心持で北を指して出かけました。
 無分別《むふんべつ》で出て来たお君。生れ土地から尾上山《おべやま》の外へ出たことのないお君。東の空に光る宵の明星をめあてに、只管《ひたすら》に二里ばかり歩きつづけましたが、そこで一筋の広い道が東から来て筋違《すじか》いになるところの庚申塔《こうしんとう》の前に立って、行先に迷うていました。めざして行く掛川はどの辺で、出て来た三浜の漁村はどこであったか、それさえ見当がつきません。
 掛川へ出て、清水港へ行くつもり。旅芸人の中に入ってなりとも、その目的を果すにさして困難はあるまいと思っていたが、どうして、僅かに浜からここまで来てさえこの足、もう右へ行ってよいのか左へ行ってよいのかわからなくなってしまったものを、二十里三十里の清水港までどうしてこれで旅がし通せよう。お君は自分の足が覚束《おぼつか
前へ 次へ
全59ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング