なのは待ちぼけを食わされたお前様だ、その魂胆を一通り御注進に参ったので。いやどうも、頼まれもせぬに、飛んだ御苦労な役目でございます」
六
伊勢の国|大湊《おおみなと》から出た若山丸は無事に伊勢の海を出て、東海の航路を駛《はし》って行ったのでありましたが、乗手の中にただ一人、無事でなかったのはお玉でありました。お玉はこの舟に乗ってから、芸名のお玉を改めて本名のお君に返りました。慣れぬ船の中で、船暈《ふなよい》に悩まされ通しであったのがこのお君でありました。
伊勢を出る時から頭が上らなかったのが、遠州灘《えんしゅうなだ》へ来ると、もう死人のようになってしまいました。このまま船を進めれば、お君は船の中で死んでしまうよりほかはないと思い、
「お松様、どうも苦しゅうございます、わたしはモウこの辺で船から卸《おろ》してもらいとうございます、とても船でわたしの身体は江戸まで持ちそうもありませぬ、こんな身体をしてお世話をかけては皆様にも申しわけがありませぬ、どこでもようございますから卸して下さいませ」
苦しさのあまりにお君はこう言って訴えました。船で悩む人には土よりほかに薬はない、お君の苦痛を救うには願い通りに船から卸して、土を踏ませるに越したことはないのです。そこでちょうど、船頭のなかに知合いのものがあって、遠州の三浜《みはま》というところへ船をつけて、そこで一行からお君だけを卸してしまったのであります。船から卸して、そこの漁師の家で暫らく保養をさせておいて、ほかの連中は先を急ぐのですから、後日を約して、ここでひとまず袂を別《わか》つことになりました。
「お君さん、それではお大切《だいじ》になさいまし、私共はひとまず駿河の清水港というところへ船やどりをすることになっていますから、そこからお迎えをよこします故、どうか安心して待っていて下さい」
お松はこう言って慰めました。それを頼りにしてお松とお君とは、泣きの涙でしばしの別れを惜しんだのであります。
僅かの間でしたけれども、二人は姉妹のような仲になっていたのでした。
海で悩んだ病気は陸《おか》へ上ると、横着者《おうちゃくもの》みたように癒《なお》ってしまいました。二日も床に親しんだお君は、もうほとんど常の身体《からだ》と言ってもよいくらいになってしまいました。
厄介になっている漁師夫婦、べつだん
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