めて出直しなさい、今日はお札は上げられぬ」
その男は苦《にが》い面をして恐れ入りました。
「そらごらんなさい、あれは中の町で松屋といって、饑饉年《ききんどし》から太らせた米屋だ、心を改めて出直しなさいと言われっちまった、そうなくちゃあならねえ」
「えらいもんですな、上人様がなにもこの土地に居ついておいでなさるわけじゃなし、当人がそれを喋《しゃべ》るわけじゃなし、それでちゃあんと掌《てのひら》を指すように言い当てておしまいなさる、あれが仏眼《ぶつがん》というものでございますな。ああなると神通力《じんずうりき》を得ておいでなさるから、とても外面《うわべ》だけを飾って出たところで仕方がありませんな」
「そうですとも、ああいうところへは馬鹿は馬鹿なりに、悪人は悪人なりに、正《しょう》のまま持って行ってお目にかけるよりほかは仕方がござんせんな」
「どうです、おたがいがまあ、ああ言って人の前でスパスパすっぱぬきをやろうものなら忽《たちま》ち大事が持ち上ってしまいますな、白粉を薄くつけようと厚くつけようと大きなお世話だ、なんて啖呵《たんか》を切られた日には納まりがつきませんな。それをどうです、大勢の前でスパスパとやられて一言《いちごん》もなく恐れ入っちまうなんぞは、人徳《にんとく》というものは大したものですな」
「心の出来た人ほど怖ろしいのはござんせん。あれでお前さん、上人様は御自分では跣足乞食《はだしこじき》と同じ身分だとおっしゃって、ほんとうに乞食同様な暮らしをしておいでなさるんだが、将軍様であろうとも公卿《くげ》さまであろうとも、私共と附合うのと同じようにしておいでなさる、ああなると貴賤貧富がみんな同じことにお見えなさるんだね」
「さあ参りましょう。私共なぞもお札がいただけるかいただけないか、とにかく正《しょう》のままをお目にかけてお願い致してみましょうでございます」
隠居さんのようなのが一人立ちかけて、ふと懐中へ手を入れてみましたが、
「おや」
「どうかなさいましたか」
「たしかに持って参った懐中物が」
「お懐中物が? それはそれは」
「おやおや、私も大事な紙入が……」
「あなたも?」
「あれ、わたくしの簪《かんざし》がどこぞに落ちておりは致しませんでしょうか」
がんりき[#「がんりき」に傍点]の周囲《まわり》で、あちらにもこちらにも紛失物の声がありましたので、四辺
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