《あたり》がにわかに物騒《ぶっそう》になります。
 坐っていたものまでが総立ちで騒ぐと、事がいよいよ穏《おだや》かでなくなって、おたがいの眼つきになんとなく疑いの色がかかるから、皆々いやな気持がしてしまいました。
「御用心をなさいまし、よくない奴が入り込んでいるようですから」
「何です何です、泥棒ですか、早く掴《つかま》えておしまいなさい」
 それでいよいよ騒ぎが大きくなると遊行上人が、
「ああ、これこれ静かに。何かまたよくないことをするものがこの席へ入り込んだと見える、わしがよく見て上げるから静かになさい」
 この一言《ひとこと》で騒ぎが静まると、上人は一座をずうっと見廻したが、その眼ががんりき[#「がんりき」に傍点]の面の上へ来てハタと止りました。
 上人の眼は眼光|爛々《らんらん》というような眼ではありません。眉毛《まゆげ》の下から細く見えるくらいの眼でしたが、ずっと席を見廻すと、がんりき[#「がんりき」に傍点]のところへ来て上人の眼がハタと留まりましたものですから、がんりき[#「がんりき」に傍点]はまたギクッとしました。
 そこで上人はこう言いました、
「人の欲しいと思うものを取ったところで、それは己《おの》れの福分《ふくぶん》にはならぬものじゃぞ。金が欲しいならば、この集まりが済んでから、わしのところへ相談に来てみるがよい、多分のことはできまいが、いくらかの都合《つごう》はして上げる、人の物を盗むというのはよろしくない。さあ、この席のことはこの席限り、昔|犯《おか》した罪でも、神妙に懺悔《ざんげ》をすれば仏様が許して下さる。今日はこれおたがいが、後生往生《ごしょうおうじょう》のためというて集まったこの席で、人の物を盗ろうというものは、よくよくお気の毒な性《しょう》に生れついたものじゃ。盗った品はここへ出しておしまいなさい、今も申す通り、この席のことはこの席限り、盗られた人も許して下さるであろうし、盗った方もたちどころに罪が消えるのじゃ」
 こう言って、しーんとした席を見渡す、見渡すのではない、がんりき[#「がんりき」に傍点]一人の面だけを、じっと見詰めておられるようにしか思われませんから、さしものがんりき[#「がんりき」に傍点]は、なんとなくまぶしくなって、面を上げていられないで俯向《うつむ》いてしまいました。
 上人からこう言われて、誰か名乗って出るだろ
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