たか、それをそなたがどうして知っている、よく話してもらいたい」
「ちょうどよい折ですから、お話し申しましょう、知っているだけをお話し申しましょう」
 お絹は柴《しば》を折りくべて、それを火箸《ひばし》で掻き立てながら、
「あの先生が、或る時、旗本のお邸へ招かれたと思召《おぼしめ》せ、そのお邸で、いろいろ武芸の話が出て、それからお夕飯の御馳走になったのでございます」
「その旗本というのは誰の邸」
「それは申し上げられませぬ、あとで申し上げる時節があるかも知れませぬが、今は申し上げられませぬ」
「それから?」
「島田先生も、大へん御機嫌《ごきげん》がよくて、常よりは御酒《ごしゅ》も過ごしなされ、御料理もよくいただいて、さてその帰りでございます」
「その帰りに?」
「そのお邸でお乗物をと申されたのを、お断わりなすって、今宵はなんとなく心持が面白いから歩いて帰ると、いくらか微酔機嫌《ほろよいきげん》でもあったのでございましょう、伴《とも》をつれずに、たった一人で下谷の御徒町《おかちまち》の方へお帰りになったのでございますよ」
「御徒町の道場へな」
「ちょうどその日に、わたしもまた同じお邸へ上ったものと思召せ、お女中にお花を教えたりしているところへ、島田先生が見えられたのでございます」
「なるほど」
「その日の正客《しょうきゃく》は島田先生で、お相客《あいきゃく》も五六人ほどございました、女中たちはなかなか忙《いそが》しそうだから、わたしのことゆえ、台所の方までも出向いて、差図《さしず》のようなことやお手伝いのようなことをしていますと、お女中がお膳部《ぜんぶ》を次の間まで持って行った時、そこの御主人が、まだ座敷へ出してはいかぬ、そこへ置けと女中たちに言いつけて、それから、島田の膳部はどれだどれだと念を押して尋ねていたのを、わたしが聞きましたが、やはりその時は何の気もつきませんでした」
「はて」
「それから、わたしは奥へ行って、また台所の方へ出ようとして、そのお膳部を差置いた間《ま》の外を通りますと、誰も女中がいないのに御主人が一人でいらっしゃる、その時も、やっぱり何の気もつかなかったのでございますが、わたしが通りかかるとその御主人が、あわてたような素振《そぶり》でついと立ったのが、そのとき少しおかしいとは思いましたが、それとても大して気には留めませんでした」
「うむ」
「それ
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