知らないというので失望して、とうとう備前屋の周囲《まわり》を一廻りしてしまいました。

 いくらムクを尋ねても、ムクは声も形も見えませんから、お玉は已《や》むことを得ず、ひとりで帰りの路に就きます。
 来た時と同じように、町の隅の方の人目にかからないようなところを、手拭を頭から被《かぶ》って後ろへ流し、三味線を後生大事《ごしょうだいじ》に抱えてさっさと歩いて行きます。
 今宵はお客様の強《た》っての所望《しょもう》で二度まで間の山節をうたい返した上、その因由《いわれ》などを知っている限り話させられたので、これほど晩《おそ》くなろうとは思わなかった、拝田村まで帰るには淋しいところもあるのだから、こうしてみるとムクのいないことが心細い。
「お玉が帰るじゃないか」
「お玉が帰るよ」
「ひとりで帰るねえ」
「ムクがいないや、ムクを連れないでお玉が帰る」
「送ってやろうか」
「危ない」
「でも一人で拝田村まで帰すのはかわいそうだ」
「ムク犬の代りをつとめるかな、犬の代りに狼、送り狼」
 地廻《じまわ》りの連中がこんなことを言い囃《はや》すものですから、お玉もいくらか気味が悪い、それでムクのいない
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