たものか影も形も見せないのです。
「ムクや、ムクはどこへ行ったろう」
お玉は呼んでみましたけれども、ムク犬は声も形もあらわしません。ムク犬が、お玉と一緒に来て、一緒に帰らぬことは今までにないことであります。ことに今宵《こよい》は帰れというのを聞かないで一緒に来て、来てみれば帰る時は姿を見せぬ、さっき低く吠えた時と言い、今こうして見えなくなったことと言い、お玉の胸には安からぬ思いであります。
「ムクや、ムクや」
呼びながら、この備前屋の裏の方へ廻ってしまいますと、
「もし」
暗いところから声があったのは、尋ねるムク犬の声ではなくして、細い女の声でありました。
「はい」
お玉は足をとどめますと、裏の木戸をそっ[#「そっ」に傍点]とあけて、
「お前様は、あの、お庭で間の山節を唄いなすったお玉さん」
「左様でございます」
「お見かけ申して、お頼み申したいことがありまする」
「何でございますか、叶《かな》いますことならば」
「委細はこれに認《したた》めてござりまする、この手紙とこのお金、これをお届け下さりませ、届け先は……それはこの手紙の表に書いてありまする、こうしている間も心が急《せ》
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