阿漕ヶ浦は、その夕凪《ゆうなぎ》と朝凪《あさなぎ》とで名を得た海であります。南へ続く二見ヶ浦とても決して荒い海ではありませんけれど、二見ヶ浦を一足廻って、神崎の鼻へ出ると遽《にわか》に波が荒くなります。
 紀州灘《きしゅうなだ》や遠州灘で鳴らした波が、伊勢の海の平和を乱してやろうと、そこから押して来る、それを神崎の潜《くぐ》り島《じま》や俎島《まないたじま》、その他、水底にかくれた無数の隠れ岩がやらじと遮《さえぎ》るのですから、風浪険悪の夜は潮鳴りの声が大湊まで来るのは不思議ではありません。
 ただ不思議なのはその浪が、或いは天上から落つるように、或いは地の底から来るように、この室には響いて来ることです。
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十七姫御が旅に立つ……
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 これも不思議、その声がどこから起ったか、浪と一緒だから海から来たものであろう、微《かす》かに響いて来たのですけれども、お玉の耳には聞き洩らすことのできない声、米友の好んでうたう歌に相違ありません。
 そもそも自分らが今いるこの部屋は、家の奥にあるのか、地の底にあるのか、或いは海の岸にあるのか。

      
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