怖《こわ》くてたまらないところへ、見も知りもしない人と一緒に、どうして置放しにされていられるものか、
「ああ、わたしは帰りましょう、外へ出てしまいましょう」
「何も怖がることはないというのに」
 与兵衛はかえってお玉の縋るのを突き放すように先へ出て、扉《と》をハタと締め切って、自分だけさっさと出て行ってしまいます。
 お玉は取付く島がない。やっと落着いてみれば、悪気でここへ連れて来る与兵衛親方ではないし、ここにいる人だって、なにも自分を取って食おうというのでもないのだから、怖ろしいうちにもまたそこへ腰をかけてしまいました。
 知れない人は、まだ俯向《うつむ》いて眼を洗っていましたが、そのうちにふいとお玉の眼に触れたものは、敷物の傍《わき》に置かれた大小の腰の物でありました。それで、お玉はこの人がお武家《さむらい》であるということを知って、いっそう心細いような、心強いような、妙に混乱しきった心持になっていると、
「お豊から手紙を持って来てくれたのはお前さんか、こっちへお上りなさい」
 ようやく面《かお》を上げた人を見ると、痩せた身体に蒼白《あおじろ》い面の色が燈火《あかり》を受けて蝋のように冷たく光る。
 お玉は知らない。これは机竜之助でありました。
「どうもまことに申しわけのないことを致しました」
 お玉はお詫言《わびごと》から先です。
「とにかく、こっちへ上って、まことに済まないがこの手紙をひとつ、拙者に読んで聞かしてもらいたいが」
 竜之助は手さぐりにして燭台を少し動かしました。
 こう言われてお玉は、ハッと耳まで赤くなったのです。
「はい、あの……」
 お玉には手紙が読めないのでした。今まで読めないで通って来たし、読めと言われたこともないのに、ここへ来て恥かしい思いをしようとは思いませんでした。
 竜之助は、お玉が遠慮をしているものとでも思ったのか、
「拙者《わし》はこの通り目が不自由でな、せっかく手紙を届けてもらってもそれを読むことができない、どうぞここで代って読んでみて下さい」
 静かな声で折返して頼む。
「はい、あの……」
 お玉は困ってしまい、
「せっかくでございますが、あの、わたしも目が不自由なのでございまして」
「そなたも目が不自由……」
「はい」
「それはそれは」
「いいえ、目は見えるのでございますが、字を読むことができませぬ、お恥かしゅうございます」
「ははあ、なるほど」
 竜之助の面に、やや気の毒そうな苦笑《にがわら》い。
「さてさて、二人揃うて一つの目が明かぬとは……」
 お玉は真赤になってしまって、今宵《こよい》という今宵、はじめて字を知らぬことの恥辱を感じたのでありました。
「それでは手紙は後のこと、この手紙を届けてくれた女の身の上を話してもらいたい」
「はい、この間の晩、古市《ふるいち》の備前屋という家へ、わたくしが招かれて参りました」
「備前屋というのは?」
「それはあの、大楼でございます」
「大楼とは?」
「遊女屋」
「遊女屋――なるほど」
「そこへ招《よ》ばれて参りまして、その帰りにこのお手紙を頼まれたのでございます」
「その備前屋というのへそなたが招ばれて……何のために招ばれました」
「あの、歌をうたいに」
「歌をうたいに?」
「はい、わたくしは、間の山へ出ておりまする玉と申しまして、賤《いや》しい女でございまする、歌をうたいに招ばれましてその帰りに、あの家の裏口から、不意に女の方がおいでになって、このお手紙と、それから一包みのお金とをわたしに渡して、この手紙の上書《うわがき》にあるところへ届けてくれと申しました故、わたくしは何の気もなくお請合《うけあ》いを致しました」
 お玉は、あの晩の筋を一通り繰返して、
「そうして翌日は、早速お届けを致しましょうと思っているところへ、どうしたわけだか知りませんが、お役人が来て、無理にわたしを召捕ってしまおうとなさるから逃げ出して、逃げ歩いて、やっとこちらへ参ったのでございまする、それ故、せっかくのお金も打捨《うっちゃ》っておいて、お手紙だけは懐《ふところ》へ入れておいたのを、後で気がついたようなわけでございます。そういうわけでございますから、どうぞ御免あそばして下さいまし」
 お玉はお詫びの心のみが先に立つのでありました。
「ただ、それだけの御縁でございます、お名前も承わりませねば、御用向も伺いませんで」
 お玉の話だけでは、決して竜之助を満足させることはできませんでした。
 遊女屋――女――金、その次に来るものは――この手紙の中にその消息が言い込められてあるはず。四つの目があって一つの用をもなさぬこの場の有様は、やっぱりお玉をして恥じ且つもどかしさに堪えざらしめたので、
「それから、あの、重々申しわけがございませんが、実はその手紙の中をもう拝見し
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