た。
 仕事場の外は暗いが、右手の方の海は明るく見えます。
 大湊の海は阿漕《あこぎ》ヶ浦《うら》には遠く、二見ヶ浦には近い。静かで蒼《あお》い阿漕ヶ浦と、明るくて光る二見ヶ浦が、大湊の島で二つに分れているようになっていました。
「お玉、お前まあ、よく会って話をしてみるがいい」
 海の風が神前浜《こうさきはま》の方から吹いて来て与兵衛の声を消す。お玉はよく聞えなかったから、返事をしないで黙って歩くこと暫し、
「さあ、ここへ入るのだ」
 入江に近い大きな材木小屋。
 お玉を入れると直ちに与兵衛は戸を立て切ってしまいました。
「手を引いてやる、暗いから用心をして来さっしゃい」
 船をこわした古い材木と、削《けず》りぱなしの材木との累々《るいるい》たる間を、与兵衛に手を引っぱられて行くお玉は気味が悪くてなりませんでした。もし相手が与兵衛でなかったならば、お玉は一歩も中へ進み得なかったであろうと思われます。
「お玉さん、退引《のっぴき》ならねえ行きがかりで、俺もその人を匿《かくま》っているんだ、誰にも知られてはならないが、お前は別だから連れて来たんだ」
 与兵衛がこれほどに匿《かくま》い立《だ》てをするその人は、いかなる人で、何の義理があるか、それらもまたお玉にはわかりませんでした。
「あの、なんでございますか、男のお方でございますか、女のお方でございますか」
「男の方だよ」
 暗い中を暫らく行くと、石段があって下へ下へと降りて行くようになっていて、下からは塩気《しおけ》を帯びた風が吹き上げて来るようでありました。
 大湊は神代からの因縁《いんねん》のある古い古い船着《ふなつき》であります。この小屋なども百年を数える古い建前《たてまえ》であって、磯の香りや木の臭気でむしむしと鼻を撲《う》つのでありました。
 磯に沿うた崖《がけ》と、小屋の支えになった乱杭《らんぐい》の間の細道を歩かせられて、どうやら材木小屋の下を潜《くぐ》って深い穴蔵《あなぐら》の中へ引張り込まれて行くように思われてきました。
 お玉はここまで引張られて来ると、何とも言えないいやな気になってしまい、
「ああ怖《こわ》い」
 意地にも我慢にも、引かれて行く与兵衛の手を振り切って逃げ出したくなりました。
「どうした」
 お玉は慄《ふる》えながら、
「ずいぶん怖いところですねえ」
「こんなところでなければ人は隠せない」
 与兵衛は、ずんずんとお玉の手を引いて行く。
 お玉の怖いというのは、ただ場所柄《ばしょがら》が怖いというだけではなくて、なんだかしんしん[#「しんしん」に傍点]といやな気持になってゆくのでありました。
「誰か後をついて来るような足音がします」
「そんなことがあるものか、さあここだ」
 今、与兵衛の扉《と》をあける音で気がつくと、パッと燈火《ともしび》の光、かなりに広い一間。
 その中に朦朧《もうろう》として人が一人います。

         十三

 微《かす》かな燈火《ともしび》の光に朦朧として人が一人います。恐怖のうちにお玉の眼に映じたものは、その人が水色無地《みずいろむじ》の着物を着て、坐って俯向《うつむ》きになっていたから、蓬々《ぼうぼう》と生えた月代《さかやき》だけが正面に見えて、面《かお》は更に見えませんでした。
 俯向いている下に耳盥《みみだらい》が一つあって、俯向いているのはその人が今、巾《きれ》でもって面の一部分を洗っているのであることを知ったのは、やっと中へ入っていっそう気を鎮めた後のことであります。
「小島様、お使の衆を連れて参りました」
「それは御苦労」
 一句、地獄から引いて来るような声。
 その声だけで、なんとなくお玉は胸へ氷を当てられたように感ずるのです。
「…………」
 お玉は何とも挨拶のしようがないからそこに腰をかけたままで、俯向いた人の方を盗むようにして見ると、面の一部分を洗っていると思うたのは眼を洗っているのでありました。真鍮《しんちゅう》の耳盥へ、黒い巾《きれ》を浸《ひた》しては、しきりに眼のところへ持って行って、そこを叩いているのでありました。
 ああ、この人は眼が悪い。
 お玉は直ぐに、そう感づいてしまいました。米友から手紙を読んでもらって、手紙を受取る人が病人であろうとの暗示は得ていましたけれど、眼が悪いのだとは気がつきませんでした。それを今ここへ来て見て、はじめてそう感づいたのでありました。
「それでは、ゆっくりお話しなさいまし。お玉坊、ここは誰も来る人もなし聞く人もないから心配をしずに、よくお話し申して、お金を失くしたお詫《わ》びを申し上げるがいい、わしは家へ帰って、いいかげんの時分に迎えに来るから」
「親方さん、一緒にいて下さい」
 お玉は与兵衛に縋《すが》りつきたいと思いました。たださえしんしんとして
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