まあ、なんにしてもここまで無事に来りゃあもう占めたもの、どこか今夜はひとつ山神《さんじん》の祠《ほこら》でもお借り申して一晩泊めてもらって、それから明日の朝、野見坂峠を越して鵜倉へ出るんだ。玉ちゃん草臥《くたび》れたろう、もう一息だ、我慢しな」
「なあに、そんなに草臥れやしませんよ」
 たしかに六七里は来ているから、お玉の足ではかなり草臥れていました。所帯道具を背負《しょ》っているために、米友は今更お玉を背負ってやるわけにもゆきません。
「やあ橋がこわれてやがる。何だ、出逢橋《であいばし》だって。洒落《しゃれ》た名前だな、出逢橋がこわれて縁切橋なんぞは気が利かねえ。飛んじまえ。玉ちゃんお前、飛べるかえ。飛べなきゃあ、どっかから丸太を探し出して橋をかけてやるがどうだい」
 米友は軽々とそのこわれた板橋の間を飛び越えてしまって、荷物をそこへ下ろしているとお玉は、
「飛べますよ、このくらいのところ、わたしだって」
 距離は一間ぐらいしかないのだから、お玉も何の気なしに、
「どっこいしょ」
 米友が気づかっているのを無頓着《むとんちゃく》に飛びは飛んだが、見事に飛び損《そこ》ねてしまいました。
「あれ――」
「ソレ、だから言わねえこっちゃあねえ」
 米友は喫驚《びっくり》して小川に陥《はま》ったお玉の手を取る。川は小さな流れだけれども、相当の深さでありました。
 そういう場合における米友は注文より以上に敏捷《すばし》っこいので、女を水物《みずもの》にしてしまうようなことはなく、お玉がおっこち[#「おっこち」に傍点]るが早いか直ぐに腕を取って引き上げてしまいました。
「だから言わねえこっちゃあねえ、待っていりゃあ丸太を持って来て橋を架《か》けてやるものを、気の短けえことったら」
 米友は小言《こごと》を言いながらお玉を引き上げていると、
「ふだんならこのくらいのところは何でもないけれど、今は気が急《せ》いているもんだから」
「まあ、仕方がねえ。これビショ濡れだ、上着も帯も。それに向《むこ》う脛《ずね》を少し摺《す》り剥《む》いたね、痛いかえ」
「痛かあありません」
「これじゃあ道中ができねえ、そうかと言って人の家へは寄れねえ旅なんだから、山ん中へ入ろう、まだ泊るには早いけれど、どこかでその着物を乾かすところを探さなくっちゃあな」
「そうだねえ」
「エエと、あの高《たけ》えのが獅子ヶ鼻という山だ、あの山の蔭へ行ってみたら、いいところがあるかも知れねえ」
「行きましょう、人が来るといけないから早く」
 二人はなお南へ行こうとした道を曲げて、西の方へ道のない山ふところを分けて獅子ヶ鼻の山の下へ出ました。
 四方を見れば寂然《じゃくねん》として深谷《しんこく》の中にある思い、風もないから木も動かぬ、日の光が、照すのでなく覗《のぞ》くようにとろり[#「とろり」に傍点]としている。
「玉ちゃん、さあ着物を脱ぎねえ」
 大きな樅《もみ》の木の下、岩角が自然と洞《ほら》になっているところ、米友はそこを見出して自分が先に荷物を卸《おろ》して、
「ここなら誂《あつら》え向き、その木と木の間へいま梁《はり》をこしらえるから、そこへ着物をかけて乾かしておけば、着物の乾く間、それが屋根にならあ」
 立枯《たちがれ》の木をへし折って、それを蔓《つる》で結《ゆわ》えて干場《ほしば》を拵《こしら》える。
「さあ、干場が出来たから着物を脱ぎねえ」
 お玉は解きかけながら、
「米友さん」
「何だい」
「襦袢《じゅばん》まで湿《しめ》ってるんだよ」
「なら襦袢まで脱いだらよかろう」
「襦袢まで脱げば裸《はだか》になってしまうじゃないか」
「裸だって仕方が無え」
「裸になるのはいやだねえ」
「いやだって、その濡れた着物を着ちゃあいられめえ」
「それだってお前」
「何だい」
「恥かしいねえ」
 お玉は、はにかん[#「はにかん」に傍点]で面《かお》を赤くする。米友は猿のような眼を円くして、
「恥かしい?」
 そう言って四方《あたり》を見廻したが森閑《しんかん》たる谷の中。
「恥かしいったって、誰もいやしねえじゃねえか」
「誰もいないったって、恥かしいわ。それにお前も見ているじゃないか」
「俺《おい》らが見ていたって……」
 米友は四方《あたり》を見廻した面をお玉の面へ持って行くと、
「うん、なるほど、お前が裸になるのがいやなら、俺らが先に裸にならあ」
「友さん、お前が裸になってどうするの」
「俺らの着物をお前に着せてやろう」
「それではお前が裸になるじゃないか」
「そりゃそうさ、どっちかひとり裸にならなけりゃ納まりがつくめえ」
「それでもお前を裸にしちゃあ気の毒だわ」
「お前は裸になるのが恥かしいというじゃねえか、俺らは裸なんぞはちっとも恥かしいとは思わねえ、裸の方がいい心持なく
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