の枝の間から声がする。
「やいやい、手前《てめえ》はエライ奴だ、宇治山田の米友の竿を撥ね落す奴は日本に二人とはあるめえ、その腕に惚《ほ》れたから、米友が今日は綺麗に負けて逃げてやらあ、だがな、おい、役人、町のやつら、ムクを殺すと承知しねえぞ、ムクを殺すようなことがあれば、この米友が宇治と山田の町へ火をつけて焼き払うからそう思え、宇治と山田の町へ火をつけたら、手前たちはよくっても大神宮様に申しわけがあるめえ、火をつけられるのがいやだと思ったらムクを放してやれ、いいか、それ屋根から屋根へ飛んで米友様がお逃げあそばすのだ、弥次馬どきやがれ」
 屋根にいた弥次馬連はこの声を聞いて、屋根から転《ころ》び落つるほどに驚いて逃げ走りました。
 米友は榎から屋根、屋根から屋根、瞬《またた》く間《ま》に姿を隠してしまった身の軽いこと。

         十一

「いけねえ、いけねえ」
 米友は茹《ゆ》でたようになって、隠《かくれ》ヶ岡《おか》のわが荒家《あばらや》へ帰って来ると、戸棚に隠れていたお玉が出て、
「ムクは殺されてしまって?」
「ううん、殺されやあしねえけれど助からなかった、古市の町へ逃げ込んで、大勢に囲まれているんだ、ムクのことも心配《しんぺい》だが、お前《めえ》と俺《おい》らもこうしちゃあいられねえ」
「どこへ逃げましょうね」
「どこと言って俺にも当《あて》はねえ、山の方へ逃げてみよう」
「友さん、竿をどうしたの」
「ばかばかしいやい、宇治山田の米友が商売物の竿を召し上げられちゃった」
「誰かにあれを取られたの」
「そんなことはどうでもいい、早く逃げなくちゃいけねえ、玉ちゃん、俺の背中へ乗っかりねえ」
「わたしだって歩けますよ」
「歩けるたって世話が焼けていけねえ、引担《ひっかつ》いで行くから遠慮をしなさんな」
「でも、こんな大きな姿《なり》をして負《おぶ》さってはきまりが悪いから、歩けるだけ歩きますよ」
「きまりが悪いどころの話じゃねえ、お前と俺はここを逃げると二度とふたたび、この土地へ足を踏ん込めねえんだ、山へ逃げ込めば山ん中で当分かくれて里へは出られねえんだ、だからここに有合せものの栗でも薯《いも》でもお米でも、みんなこの袋へ入れて俺《おい》らが担いで行くよ」
「そうしましょう、それにしてもわたしはムクのことが心配になる」
「心配しなさんな、俺らが町のやつらを嚇《おどか》しといたから、やつらもムクを殺しはしめえ、生きていりゃあ、ムクのことだから、山ん中にいようと谷底に隠れていようと、あとを尋ねて来るからなあ」
「ほんとにそうだといいけれど」
「そうに違えねえ」
 これらの連中の頭は実に単純を極めておりました。お玉は何の故にして自分が召捕《めしと》りに来られたのだかわからない。米友もまたもとよりそれがわからない。おたがいにわからない同士で逃げ出したり助けに行ったり、泣きごとを言ったり啖呵《たんか》を切ったりしている。彼等にとっては人間の出来事も偶然の天災も同じことで、地震、雷、火事の場合と同じように、当面のことだけ逃げたり避けたり反抗したりしていればよいつもりでいるのでした。

 お玉には笠を被《かぶ》せて、身なりもなるべくお玉でないようにし、米友もまた笠を被って人目を隠し、袋へはあり合せた食料や日用品を詰め込んで肩にかけて飛び出しました。
「玉ちゃん、俺《おい》らは考えたがな、山へ逃げ込むよりもだな、これからずっ[#「ずっ」に傍点]と南へ行って野見坂峠というのを越すと鵜倉《うくら》という浜辺へ出るからな、その浜辺から船へ乗って逃げようじゃねえか、船へ乗っちまえばお前、熊野へ行こうと宮へ行こうと勝手なもんだ、役人だって、それまで追いかけちゃ来られねえんだ」
 米友がこう言い出したのは、宮川をズンズンさかのぼって、川口というところから中《なか》の郷《ごう》へ来かかった時分でありました。
「それもそうだね、友さんのよいようにして下さい。けれどもね友さん、舟へ乗っちまってはムクが尋ねて来られないじゃないか」
「それもそうだな……よしよし、それじゃどっちにしろ、いったん浜辺へ着いてから、お前を隠しておいて俺《おい》らはまた引返して、もう一ぺんムクを尋ねに行って来らあ」
「それは危ないよ」
「ナニ、隠れて行きゃあ大丈夫だ」
「それだってお前、危ないさ。仕方がないからムクのことはムクとしておいて、その浜辺とやらへ早く逃げましょうよ」
「それがよかろう、俺らはムクのことは大丈夫だと思ってるんだ、あの犬は人に殺される気遣《きづけ》えはねえとこう思ってるんだ」
「わたしもなんだか、そう思えて仕方がないの、いつもムクがいなけりゃあモット淋しいんだが、今度はそんなに淋しいとは思わないから、きっとムクは無事なんだよ、それでわたしは安心している」

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