竜之助と会うことになってしまった。それがまた飛び放れて、紀伊の国の竜神という温泉場の宿屋のおかみさんにまでなってしまった。両眼の明を失った机竜之助を介抱して、呪《のろ》いの火に焼ける竜神村をあとにしてどこへか逃れて行ったが――落着く運命はついにここでありました。
 今度こそは生き返る心配はありませんでした。遺書は主人へ宛てた一通だけで、ほかにはどこを探してもそれらしいのがありません。
 よくよくあの歌につまされたものでしょう、遺書の書出しに記してあるのは、
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花は散りても春は咲く
鳥は古巣へ帰れども
行きて帰らぬ死出の旅
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         七

 お玉の家のあるところは、拝田村の中の一部落であって、その部落は特殊の因縁《いんねん》つきの部落であります。
 因縁つきの部落とは、あからさまに言ってしまえば「穢多《えた》」の部落なのであります。そうしてお玉もそこで生れてそこで育ったのですから、生《は》え抜きの穢多なのであります。
 一口に穢多とはいうけれども、ここの穢多は他所《よそ》の穢多とは少しく来歴を異にしていました。大神宮様が大和の国|笠縫《かさぬい》の里からこの伊勢の国|五十鈴川《いすずがわ》のほとりへおうつりになった時、そのお馬について来た「蠅《はえ》」が今の拝田村の中の一部落の先祖だということであります。
 人間の祖先と猿と同じいということは学者がいう、蠅が人間の先祖だということはここよりほかには聞かないこと。
 けれども、それはわざとそんなことを言って軽蔑したがるので、蠅はすなわち隼人《はいと》、隼人はすなわち大和民族のほかの古代史の一民族だともいう。
 隼人をその後には訛《なま》って「ほいと」と呼ぶ。「ほいと」の中から容貌のすぐれた女の子が、お杉お玉となって間《あい》の山《やま》へ現われるというのであります。
 それですから、お杉お玉のうちにはどうかすると抜群の美人が出る。「好色伊勢物語」という本に、
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「その容姿|麗《うる》はしくして都はづかし、三絃《さみ》胡弓《こきゅう》に得《え》ならぬ歌うたひて、余念なく居りけるを、参詣の人、彼が麗はしき顔色《かんばせ》に心をとられて銭を投掛くること雨の降り霧の飛ぶが如くなるを、かいふりてあてらるることなし」
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 お杉お玉が旅人の投げる銭を受けるのは、面《かお》を反《そむ》けて受けたり、笠を傾けて受けたり、撥《ばち》で発止《はっし》と受けたりします。
 三味を弾くことの練習と一緒に、銭を受けることの練習をも子供の時分から精を出していますから、天性|上手《じょうず》なものになると、武術の達人が投げた手裏剣《しゅりけん》をも外《はず》すの妙に至るものが出来たということであります。
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水になりたやお伊勢の水に
お杉お玉が化粧《けしょ》の水
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 こういってあやかりたがるほどの両人《ふたり》が容貌も、それに投げつける銭と同じことで、打ち込んでみた時には必ず外される。
 近寄れるけれども、触れることのできない美しさ、美しい哉《かな》、「ほいと」の娘はついに「ほいと」の娘で朽《く》ちてしまわねばならぬ運命を持っていました。もしその美しさに触れんとならば、「ほいと」と一緒に腐ってしまう覚悟でなければならぬ。
 今のお玉の母が、やはりこの部落から出て、お玉を勤めている間に、この苦しい瀬戸を越えて今のお玉を産み落したのでありました。そこに悲しい物語があって、今のお玉は現在自分の父が何者であるかを知らないのでありました。お玉の母はその後、やはりこの部落の中で味気ない一生を早く終って、間の山の正調と、手慣れた一挺《いっちょう》の三味線と、忠義なる一頭のムク犬とを娘のために遺品《かたみ》として、今は世にない人でありました。

 お玉は今朝、いつもより早く起きて朝飯を済ましてしまい、
「ムクや、これからお役所へ行くのだよ」
 昨晩ムクが啣《くわ》えて来た印籠《いんろう》を取り出して、それを今日は間の山へ出がけにお役所へ届けて、そのついでに昨晩、備前屋の裏口で頼まれた手紙とお金をもその頼まれたところへ届けてしまいたいと、こう思ったので、まず印籠を取り出して見ると、夜目に見た時よりもいっそう立派なものでありました。次に備前屋の裏口で頼まれたお金と手紙、どこへ届けるのだか、この手紙に書いてあるからと聞いたばかりでまだ調べて見なかったが、悲しいことにお玉は字が読めない女でありました。
 字が読めなくっても、今までに不自由を感じたこともないし、それを恥だともなんとも感じたことのないほど、それほどお玉は周囲の狭い天地で育っているのでありました。
「まあいいわ、この印籠の方だけ届
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