けておいて、この手紙の上書《うわがき》は誰かに読んでもらいましょう、間の山へ行けば講釈の先生もいるわ、それでも遅いことはないでしょうと、わたし思う」
 お玉は手紙だけを懐中へ入れて、次にそれと一緒に頼まれたお金。
「お金のことがいっそう心配だわ、お金を預かっているのはなんだか心持が悪い」
 その時に、
「お玉ちゃん」
 子供の声。
 これは、ついこの隣りから、同じ間の山へ莚《むしろ》を敷く「足柄山《あしがらやま》」の子供でありました。ことし五歳で、体に相当した襦袢《じゅばん》、腹掛《はらがけ》に小さな草刈籠《くさかりかご》を背負《せお》い、木製の草刈鎌を持って、足柄山を踊る男の子でありました。
「金ちゃんかえ、おや、もうお仕度が出来て。お母さんは」
 垣根の外にお母さんがいる。
「お玉さん、お早う」
「お早うございます。おばさん、わたしはいま出がけに、お前さんのところへちょっとお寄り申そうと思っていたところなの、まあお掛けなさいまし」
 お玉は包みかけたものをそのままにして、金ちゃんの母親を縁側へ招いて、
「おかみさん、昨晩、わたしはこんな拾い物をしたのですよ、まあごらんなさい」
 包みかけたのをワザワザ解いて、ムクが啣《くわ》えて来た印籠を取り出して見せると、
「おやおや、たいそう結構な印籠――金蒔絵《きんまきえ》で、この打紐《うちひも》も根付《ねつけ》も安いものじゃありませんねえ」
「あんまり結構な品ですから、お役所へ届けなくては悪かろうと思いまして、それで今日は少し廻り道をして山田の方まで……」
 お玉は、昨晩これを拾った始末を話そうとしている、金ちゃんの母親は目をすまして、その結構な印籠をながめていると、この時まで温和《おとな》しく縁先に坐っていたムク犬が、何に気がついてか頭を立てて竹藪《たけやぶ》の中へ真直ぐに眼を注ぎました。
 ムク犬が竹藪を見込んだことは、なにか仔細がありげで、お玉にはそれが気がかりにならないことはありませんけれど、話しかけた筋は通さねばなりませんから、
「そういうわけで、わたしは山田へ廻りますから、もし後《おく》れて、わたしの間に合わない時には、お鶴さんを頼んで下さるように、お杉さんに、そうおっしゃって下さいまし」
 お玉が、金ちゃんの母親を呼び込んだのは、この言伝《ことづて》をしてもらいたいからでありました。
「へえ、よろしゅうございますとも」
 この時に、竹藪の中を見込んでいたムク犬は、急に起き上ると驀然《まっしぐら》に藪の中をめがけて飛び込んでしまいました。
「どうしたんでしょう、ムクが落着かないこと」
 お玉もまた竹藪の中を見込んで思案顔。
「狐が出たのでしょうよ」
「そうかも知れません」
 ムクはしばしば狐を取り、狼を追いかけることがありました。ムクが出動をする場合は、大抵この二つの場合でありましたが、その狐も今は絶えてしまったようだし、狼もムクを怖れて、幾年にもその影を見せませんから、この村には、今ムクを起すべき非常のことが一つもなかったのです。無論、それと知ってこの村あたりを犯す盗人の類《たぐい》がある由もありません。
「狼が来るはずはありませんね」
 金ちゃんの母親も、ムクの走り込んだ竹藪を見込んで不審顔《ふしんがお》をしています。
「ムクや、ムクや」
 お玉は縁側へ立ち上ってムクを呼びますと、しばらくして物を唸《うな》りつけるムクの声、竹藪の中がガサガサすると見れば、そこから飛んで出たムクは、今度は一散《いっさん》に木戸の方へと走りました。
 その木戸口から今、一人の人が入って来る、よくこの辺に見える薬の行商|体《てい》の人でありまして、その男が木戸口からお玉のいる方へ進んで来ますと、いま竹藪から走り出したムクはその人に向って、噛みつかんばかりに猛然として迫って行きます。
 行商体の男は、タジタジとしましたけれども、犬をなだめるようにして、お玉のいる方へ近寄って来ようとします。それをムクは近寄らせまいと肉薄しているようにも見えます。さすがにまだ噛みつきも、食いつきもしませんけれど、ムクの気勢を見れば、絶えて久しく現われなかった狼を追う時の眼の色が現われておりますから、
「ムク、人様を吠えてはいけませんよ」
 お玉はこっちで犬を制したけれども、ムクは決して柔順になりませんでした。その男が一歩進めば一歩進むほど、ムクの気勢が荒くなるのでありました。
 いかなる人が、どんな異様な風采《ふうさい》をして来ようとも、ムクは眠れるものの如くして、嘗《かつ》てそれに吠えついたことはないのに、今は全くそれと違いますから、
「この犬は気が違ったのではないかしら」
 お玉も来る人に気の毒でたまらない。洪水《こうずい》の中をやっと泳ぐようにして行商体の男は、ムク犬の鋭い威勢を避けながら、お玉のいると
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