とさあらぬ体《てい》に落着いて見せるのもありました。しかし大変は大変でありました。旅に来て路用を失くすることは誰にしても好い心持はしない。ことに女にうつつ[#「うつつ」に傍点]を抜かしている間に、肝腎《かんじん》のものをしてやられたのでは、あまり芳《かん》ばしい土産話にはならないのです。五人のお客も内心の腹立ちと悄気方《しょげかた》は一通りでないのですけれども、そこは時と場合で、そうクヨクヨ言ってもおられないのであります。
 お客の方が困るばかりでなく、店の方ではなおさら困ります。伊勢の古市のこれこれへ行って盗賊にやられたという噂《うわさ》が立つのは、大楼の暖簾《のれん》の手前もある、備前屋の主人は恐縮して、家の内と外とを隅から隅まで調べさせて、役人へも訴え出ようとするのをお客たちは差留めて、
「あればあったでよし、なければないでよいから、表沙汰にしてもらいたくない」
 彼等には彼等の身分というものがあって、表向きにされた時に、かえって金銭には換えられない恥を取るという懸念《けねん》もないではなかったようです。
 別段に他から賊の入った様子が見えないこと、これが第二の不思議であります。
 備前屋の主人は、家族から雇人、芸妓遊女の類《たぐい》を悉く足留めをして、いちいち裸《はだか》にするまでにして調べたけれども、品物は一つも出ては来ず、また、こいつが取ったろうと思われるような面付《かおつき》に見えるものは一人もありませんでした。
「どうもなんとも困ったことで、全く以て申しわけがないことじゃ」
 備前屋の主人が額《ひたい》へ手を当て当惑するところへ、愚直らしい夜番の男が口を出して、
「昨夜わしが夜番をして、こちらの裏の方を廻ると、あの間の山のお玉が、その塀《へい》の裏の方をウロウロしていたが、お玉がなんですかえ、こちら様へお呼ばれなすったのですかえ」
「あ、お玉……」
と言って、主人を囲んでそこに集まるほどの者がみんな眼を見合せました。宵からここへ出入りをした者で、ここに面《かお》の足りないのはそのお玉ばかりでありました。
「お玉がなにかえ、この家の裏の方を……」
「へえ、お玉さんが裏の潜《くぐ》りのところから出て塀をグルリと廻って……」
「ははあ、お玉がかい」
 一同は、お玉の名を言い合せてその眼が怪しく光りました。その時に、
「タタタ大変でござりまする、離れの中二階《ちゅうにかい》で……」
 仲居の一人が第二の大変をその場へ知らせて来たのであります。
「大変とは?」
「あの離れの中二階で、お登和《とわ》さんが……こうして」
「どうして?」
 仲居の女はこうしてと言って、血相が変って口が利《き》けないのを手で補って、咽喉《のど》を掻き切る真似《まね》をしたのですから、備前屋の主人は仰天《ぎょうてん》しました。
「お登和が咽喉を突いたと!」
 盗賊は大きくとも物品に関することであるが、ここに報告されて来た第二の大変は人命に関することでありました。
「みんな早く……」
 主人は先へ立って飛んで離れの中二階へ来て見ると、屏風《びょうぶ》もなにも立て廻してはなく、八畳の間いっぱいに血汐《ちしお》。蘇枋染《すおうぞめ》を絞《しぼ》って叩きつけたようなその真中に突伏《つっぷ》した年増の遊女――それは昨晩、間の山節をここで聞いた女、また手紙と金とをお玉にそっ[#「そっ」に傍点]と渡して頼んだ女、ここではお登和と呼ばれている女――
「ああ、やったな、危ないとは思ったが、とうとうやったな。早く脈を見てみるがいい、気味の悪いことがあるものか、血だ、血だ、血で辷《すべ》ってはいけない、刃物を取ってしまえ、刃物に触《さわ》ると怪我をする」
「あっ!」
 主人が指図《さしず》して雇人が抱き起して見ると凄い、咽喉笛《のどぶえ》を掻き切ったのは堺出来《さかいでき》のよく切れる剃刀《かみそり》で、それを痩《や》せこけた右の手先でしっかり[#「しっかり」に傍点]握って、左の手を持ち添えて、力任せに掻き切って抉《えぐ》ったもので、そこから身体中の血という血はみんな出てしまって、皮膚の色は蝋のように真白くなっているところへ、その血が柘榴《ざくろ》を噛んで噛み散らしたように滲《にじ》んでいます。
「飛んでもないことをしてしまった」
「遺書《かきおき》のこと……豊」
 それが行燈《あんどん》の下に置いてあります。お豊――読者のうちにはこの名を覚えている人があるでありましょう、それは同じ伊勢の国で亀山の生れ、家は相当の家でありますけれども、真三郎という恋人と思い思われてついに近江の琵琶湖に身を沈めてしまった女であります。幸か不幸か、男の真三郎は冥土《めいど》へ行ったのにお豊だけはこの世に生き残って、大和の国|三輪《みわ》の里の親戚へ預けられている間に、京都を漂浪して来た机
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