て」
「ナニきまりの悪いことがあるものか、盗みも隠しもしねえ、十八文の先生は俺だ、薬礼を十八文ずつ取って、その金をチビチビ貯めて、それで伊勢参りに来たんだ、十八文がどうした」
「わかりましたよ、わかりましたよ、ああ冷汗《ひやあせ》が出ちまった」
仙公としては、これで大いに江戸っ児で納まって行きたいところなのであります。それを道庵先生が十八文十八文というものだから、自分までが安く見られるような気がして、弱りきって山田の町を歩いて行くのであります。
道庵先生と仙公とはこうして山田の町を歩いていたが、途中で道庵先生がふいと一軒の店へ立寄りました。その店は提灯屋。
「こんにちは、提灯を一つこしらえてもらいてえが」
「へい、おいでなさいまし」
「提灯の安物を一つ」
「提灯は、小田原でございますか、ブラでよろしゅうございますか、弓張《ゆみはり》に致しますか、それともまた別にお好みでも」
「ブラがいいね、ブラ提灯のなるだけよくブラブラするブラっぷりのいいやつを」
提灯屋は、先生酔ってるなと思っておかしがると、道庵先生は店先へ腰をかけてしまいました。仙公も仕方がないからその傍に立って、今こんなところで提灯を誂《あつら》えなくてもよかりそうなものをという面をしています。
「仙公や、提灯がなくては何かにつけて不自由だから、ここで一つ仕込んで行くのだ、お前、好いのを見立てな」
「いろいろ出来合いがございます、お好みによってお印《しるし》を即座に入れて差上げます」
「先生、このブラ提灯のブラ下り具合が乙《おつ》でげすから、これに致しやしょう」
「よしよし、それにしよう」
「そうして、お印はどう致しましょう」
「先生の御紋は何でございましたっけね」
「定紋《じょうもん》なんぞ付けるには及ばねえ、そこんところへ十八文と書いてくんな」
「また始まった」
「十八文と入れますんでございますか、ここへ、ただ十八文だけでよろしゅうござんすか」
提灯屋はおかしな面《かお》をして道庵先生の面を見上げる。
「そうだ、十八文でよいのだ」
「先生、およしなすった方がようござんすぜ」
仙公は苦《にが》り切っている。
「ナニ構わねえ、俺が承知だ」
簡単な文句ですから、提灯屋は手提《てさげ》のブラ提灯へ早速「十八文」と入れてしまいました。
「さあ、仙公、これをつるして歩け」
「驚きましたね」
「驚くことはない、提灯が取って食おうと言やしまいし」
「それじゃあ先生、こうして畳んで懐中へ忍ばせて持って参ることに致しやしょう」
「ばかを言え、こうして吊るして歩くんだ、これから蝋燭屋《ろうそくや》へ行って百目蝋燭の太いのを買ってやる」
「冗談《じょうだん》じゃありません、昼日中《ひるひなか》、提灯をつけて宇治山田の町を歩けるもんですか」
「ばかを言え、暗いところを提灯をつけて歩く分にゃ誰だって歩く、日中、提灯を点《つ》けて歩くからそこに味わいがあるのだ」
「あんまり味わいもありませんねえ」
「ぐずぐず言わずに早く歩け」
「弱ったなあ」
「弱ることはねえ、貴様はたいこもち[#「たいこもち」に傍点]の出来損《できそく》ないだ、それがここでちょうちんもち[#「ちょうちんもち」に傍点]に出世したんだ。有難く心得て持って歩け」
「先生、提灯はようござんすが、この十八文という文句を見ると、しみじみと情けなくなりますなあ」
「なんで十八文が情けねえ」
「だって先生、十八文じゃあ、あんまりあたじけ[#「あたじけ」に傍点]ねえ」
「馬鹿野郎」
道庵先生は仙公の頭を一つぽかりと食らわせました。
「こりゃ驚きましたねえ、なんぼ拙《せつ》が仙公にしたところで、お打《ぶ》ちなさるのは酷《ひど》うげすな」
仙公は頭を抑《おさ》えて不平を言う。
「打ったがどうした、十八文は俺の看板だ、その看板を情けねえの、あたじけ[#「あたじけ」に傍点]ねえのケチを附けやがって、太《ふて》え野郎だ」
道庵先生はプンプン憤《おこ》っています。
「そりゃあね、先生、なるほど先生は薬礼を十八文ときめてお置きなさる、それは結構なことでございます、そりゃあまあ、それでようございます、ようございますけれども、なにも旅へ出てでございますな、そこでやたらに十八文十八文とおっしゃって、拙《せつ》に冷汗《ひやあせ》をおかかせなさるには当るまいじゃあございませんか。それもまあようござんす、拙がひとり胸に納めていりゃあ、それで世間の人は何も知りませんや、そう思って無念を怺《こら》えて忍んでおりますといい気になって、提灯へまで十八文と書いて、それを昼日中、持って歩けというのは、なんぼなんでもあまり情けねえじゃあござんせんか。いくら旅の恥は掻捨てだと申しましても、それじゃあどうも泣きたくなりますなあ」
「馬鹿野郎、ドコまで馬鹿だか、貴様の馬鹿
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