さの底が知れねえ……」
「こっちも底が知れねえ……」
「なんだと」
「いいえ、なんでもございません。ねえ先生、こうして旅へ出て来れば、先生様は御番料《ごばんりょう》を千俵もいただく御典医で、拙《せつ》は蔵前《くらまえ》の旦那衆というような面《かお》をしたって誰も咎《とが》める者はござんせん、ワザワザ十八文と書いて、暗闇の恥を明るみへ出さずとも……」
「なんだこの野郎、もう一ぺん言ってみろ」
「暗闇の恥を明るみへ出さずとも」
「さあ、また承知ができねえ」
「そうお怒りなすっちゃ話ができません」
「暗闇の恥とはなんだ、さあ仙公、いつ俺が暗闇の恥を明るみへ出した、さあ、それを言ってもらいてえ」
「だって先生、この十八文……」
「十八文がどうしたと言うんだ、俺は十八文の医者に違えねえ、十八文が十八文と言うのがなんで恥だ、さあ、それが聞かしてもらいてえ」
「そう理窟をおっしゃっちゃ困ります」
「なにも理窟を言うわけじゃねえ、十八文が十八文で、十八文で暮らしを立てて、その十八文の中からチビチビ貯めて、それで伊勢参りに来たんだ、それを思うと十八文様々だ、有難くって涙が溢《こぼ》れらあ、十八文のおかげでこうして俺は伊勢参りにも来られるし、うまい酒の一杯も飲めようというものだ、その冥利《みょうり》を思えば十八文様に黙っていちゃあ済まねえ、それだから提灯へおうつし申して御一緒に大神宮様を拝ませようという了簡《りょうけん》なんだ、それを貴様は情けねえの、あたじけ[#「あたじけ」に傍点]ねえの、ケチをつけやがって、承知しねえからそう思え」
「それはそれに違いありませんがね先生、そう物事をアケスケにやってしまっては実《み》も蓋《ふた》もありませんね、たとえ十八文にしたところで、百両百貫のような面をして……」
「まだわからねえ、この野郎、言って聞かせてやる、恥というのはな、学問のねえ奴があるような面《つら》をしたり、銭のねえ奴があるような面をしたり、薄っぺら[#「っぺら」に傍点]な奴が厚っぺら[#「っぺら」に傍点]の面をしたり、そんな奴が恥といえば恥なんだ、十八文はちっとも恥でねえ」
「左様ですかねえ」
「さあ持って歩け、ちょうちんもち[#「ちょうちんもち」に傍点]というやつはな、貴様のような薄っぺら[#「っぺら」に傍点]な人間でも大臣大将の先に立って歩けるんだ、増長しちゃいけねえぞ、手前《てめえ》がエライから先に立てるんじゃあねえ、お提灯様のおかげだぞ、手前のような野郎でさえそれを持てば、道庵先生の先へ立って歩ける、さあさあ、有難く心得て持って行け、持って行け」
仙公は泣きそうな面《かお》をして十八文の提灯を取り上げると、提灯屋の者は腹を抱えて笑いました。
仕方がなしに仙公は十八文の提灯をぶら下げ、道庵先生はいい気になって山田の町を通って行くと、町の中程《なかほど》で、
「先生、道庵先生じゃございませんか」
大きな宿屋の二階から呼び留める声。
「おや」
道庵先生見上げると、品のいい切髪の美人が欄干《てすり》のところに立って、こっちを見て笑っていますから、
「やあ妻恋坂《つまこいざか》の女将軍!」
と言って先生は二階を見上げて立ち止まって、
「こちらに御逗留《ごとうりゅう》か」
「先生も御参宮?」
「はいはい」
「お宿は?」
「宿はまだきまらねえ」
「そんなら、ここへお泊りなさい、お相宿《あいやど》を致しましょう」
「そりゃ有難い」
「先生、そりゃ何です、そのお提灯は」
「はは、これこの通り」
道庵先生は大自慢で、いま買立ての提灯を仙公の手から取って二階の美人に見せました。
「十八文! いやですねえ」
「こいつ[#「こいつ」に傍点]も話せねえ」
「みっともないから、そんな物を持って歩くのをおよしなさい」
「それでもこの野郎が持って歩きたいというから、わざわざ持って歩かせるのさ、この野郎は仙公といって……」
「先生、よけいなことを言わなくてもいいじゃありませんか、早く行きましょう」
「さあ行こう」
仙公は女の手前、道庵先生がどんなことを喋《しゃべ》り出すか危険でたまらないから、袖を引っぱって早く連れ出そうとしました。
「あばよ」
道庵は二階の美人を振向く。
「待っていますから、早く行っていらっしゃい」
仙公に担《かつ》がれるようにして道庵はようやく小田橋のところへ来ると、橋の袂《たもと》へ寄っかかって好い気持に寝込んでしまいました。
「おや、先生、こんなところへ眠ってしまっちゃいけませんねえ、おやおや、もうグウグウ鼾《いびき》をかいている」
道を通る人は行倒《ゆきだお》れではないかと思って覗いて行くから仙公はきまりを悪がって、いくら起しても起きようとはしません。
「酔っぱらうといつでもこれなんですからやりきれません、決して怪しいものじゃご
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