って上げろ」
「よし来た」
水手《かこ》の勝が威勢よく返事をしました。お松は伝馬に乗って岸へ行くために通《かよ》い口《ぐち》から出直して、伝馬に乗るべく元船《もとふね》を下りて行きました。その後で船頭、親仁《おやじ》、水手《かこ》、舵手《かじとり》らが、
「なるほど、宇治山田の町ではこのごろ火の用心が厳《きび》しいということだ、山へ逃げ込んだ悪者が火をつけに来るといって、廻状《かいじょう》で用心していたっけ、ことによるとその火つけの悪者でも追い込んだかな」
「そうかも知れねえ」
「待て待て、汐合《しおあい》の水門《みなと》から伝馬が一|艘《そう》、無提灯でこっちへ来るようだぞ」
「お松さんの舟じゃあるめえな。エーと、宇津木様の舟が帰って来たのだろう」
「そうだろう」
「材木場を取捲《とりま》いた提灯が一度に海辺へ出たぞ、海へ何か抛《ほう》りこむ音がするようだ」
「海へ逃がしちゃあ、ちっと捕りにくいな、水が利《き》く奴だと陸より海の方がよほど逃げいいから」
「やれやれ、御用提灯をつけた舟が二三ばい漕ぎ出したぞ」
「こりゃあ、向う岸の火事で済ましちゃいられなくなりそうだ」
この時、早櫓《はやろ》でもって、矢を射るようにこの若山丸の船腹近く漕ぎつけて来た一隻の伝馬は、篝火《かがり》もなし、提灯もなし、ほとんど船の人も気がつかないでいるうちに、この船の腹のところへすうっと漕ぎつけたのでありました。
「おーい、船頭の助蔵どんはいるかい」
「うむ、俺をお呼びなさるは誰だえ」
「船大工の与兵衛だ」
「おお、与兵衛どんか」
「大急ぎで頼みてえことがある、通してもらいてえ」
「合点だ、それ梯子《はしご》を下ろしてあげろ」
船大工の与兵衛|老爺《おやじ》とこの船の船頭の助蔵とは、入魂《じっこん》の間柄《あいだがら》と見えました。
船へ上って来た与兵衛は、助蔵の耳に口、
「助蔵どん、なんにも言わずに人を預かってもれえてえのだ」
岩まで行って見たけれども、お松はそこで兵馬に会うことができませんでした。
船番の人に言伝《ことづて》があって、帰るつもりであったけれども、山田の町にもう少し足を止める必要が起ったから帰れぬとのこと。それを聞いてお松は安心をして、元船へ帰るべくまた舟を漕ぎ戻してもらいました。
十五
山田の町を道庵《どうあん》先生が、今お伴《とも》を一人つれてのこのこと歩いています。道庵先生とだけでは、この土地の人にはよくわかるまいが、下谷《したや》の長者町へ行って十八文の先生といえば誰にもわかるのであります。
「先生、お薬礼《やくれい》はいくら差上げたらよろしゅうございましょう」と聞くと、「あ、十八文置いて行きな」と答える、それで十八文の先生、一名、安いお医者さんで有名なのであります。この十八文のためには、与八と組打ちまでした騒動があるのであります。お松なんぞもこの先生のお蔭で命を取留めたのでありました。その道庵先生が一僕を召連れて、ほくほくと伊勢参りなんぞと洒落《しゃれ》込んだのであります。
「仙公、今夜どこへ泊るべえな」
道庵はお伴を振返って酒臭い息を吹きかけました。道庵先生が酒臭い息を吹きかけているから天下が泰平なのであります。
「そうですな、千束屋《ちづかや》か牛車楼《ぎゅうしゃろう》あたりへドンナものでげす」
お伴の仙公は額を叩く。仙公という男は江戸から道庵先生がつれて来た、野幇間《のだいこ》とまではいかない代物《しろもの》であります。道庵先生はこの仙公がお気に入りというわけでもなんでもなく、伊勢参りに出かけたくなっている矢先へ、ぜひお伴を仰せつけられたいものでとか何とか言って来たものだから、よし、つれてってやるというわけで、引張って来たものであります。
「俺ゃ、そんなところはいやだ」
道庵先生の駄々。
「お嫌いでげすか。先年はあすこで弥次郎兵衛喜多八の両君が、首尾よく大失敗をやらかして、みんごと江戸っ児の面《かお》へ泥を塗ってしまったところでげす、そこでこのたびは道庵先生と仙公とが相提携して、その名誉回復なぞはいかがでございますな、ぜっぴ[#「ぜっぴ」に傍点]お伴を致したいものでげす」
「弥次と喜多が器量を下げたのは、あすこかい。よし、そう聞いちゃ俺も道庵だ、奮発する、十両も奮発して大いに遊ぶ」
「それは頼もしいことで。しかし先生、十両とくぎって奮発なさるのがおかしゅうげすな、トテモ江戸っ児の腹を見せるんでげすから、百両とか千両とかおっしゃっていただきたいものでげすな」
「ばかを言え、俺は十八文の先生だ、勿体《もったい》なくってそんなに金が使えるか」
「これは恐れ入りました」
「十八文の先生の、俺は道庵だ……」
「困りましたな、先生、そう十八文十八文とおっしゃられたんでは、きまりが悪くっ
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