国の鈴鹿峠《すずかとうげ》の下で、悪い駕籠屋《かごや》からお豊が責められて、そのとき詮方《せんかた》なくお豊が駕籠屋に渡そうとした簪がこの簪と同じ物でありました。お豊を初めて見た竜之助が、さてもお浜によく似た女と思った後に、茶屋の老爺《おやじ》が拾った平打の簪を見ると、それがまたお浜の以前の定紋《じょうもん》と同じことであった下り藤であったので、竜之助はその簪を持って京都まで上って行ったはずであります。京都から十津川《とつがわ》までの竜之助はあの通りの竜之助で、饅頭《まんじゅう》の代りに帯刀をすら差出してしまった竜之助ですから、あの一本の簪だけを今まで持っていたはずはありません。これはおそらくその後、竜神からお豊と共に逃れて後、お豊の手から再びわが手に入れた物であろうと思われます。思い出の多かるべきはずの竜之助が、その簪に対してはさまでの惜気《おしげ》がなくて、なんらの縁のないお玉は、その簪のために泣かねばならなくなりました。お玉は泣き、竜之助は泣かせておくと、またも天上から落ちて来るように浪の音が蓑《みの》を鳴らして湧き立ちました。
伊勢の海は静かな海で、ことにこれより北へかけての阿漕ヶ浦は、その夕凪《ゆうなぎ》と朝凪《あさなぎ》とで名を得た海であります。南へ続く二見ヶ浦とても決して荒い海ではありませんけれど、二見ヶ浦を一足廻って、神崎の鼻へ出ると遽《にわか》に波が荒くなります。
紀州灘《きしゅうなだ》や遠州灘で鳴らした波が、伊勢の海の平和を乱してやろうと、そこから押して来る、それを神崎の潜《くぐ》り島《じま》や俎島《まないたじま》、その他、水底にかくれた無数の隠れ岩がやらじと遮《さえぎ》るのですから、風浪険悪の夜は潮鳴りの声が大湊まで来るのは不思議ではありません。
ただ不思議なのはその浪が、或いは天上から落つるように、或いは地の底から来るように、この室には響いて来ることです。
[#ここから2字下げ]
十七姫御が旅に立つ……
[#ここで字下げ終わり]
これも不思議、その声がどこから起ったか、浪と一緒だから海から来たものであろう、微《かす》かに響いて来たのですけれども、お玉の耳には聞き洩らすことのできない声、米友の好んでうたう歌に相違ありません。
そもそも自分らが今いるこの部屋は、家の奥にあるのか、地の底にあるのか、或いは海の岸にあるのか。
十四
その前の晩、大湊《おおみなと》へ碇《いかり》を卸《おろ》した十六|反《たん》の船がありました。船の上から大湊の陸の方をながめて物思わしげに立っているのはお松でありました。
宮川と汐合川《しおあいがわ》の流れ出したところが長く洲《す》になっていました。大湊の町の町並は点《とも》しつらねた人家の灯《ひ》で丁字形《ていじがた》になっていました。それをとびとびに一里半ゆくと、宇治山田の町が灯に明るいのであります。
小林の船倉《ふなぐら》から東の方へ突き出した洲崎《すさき》には材木場の大きな建物が見えています。町は明るいのに船倉と材木場の方は真暗です。
大湊は船を造《こしら》えるところであり、またそれを修理するところであるから、ここに泊っている船は、この船とばかりは限らない。
入江の方から帆柱が林のように立っている間をおりおり小舟が往来するのを、お松はそれにいちいち眼をつけていました。
お松はこうして兵馬の帰りを待っているのでした。兵馬は大神宮へ参拝するといって船を下りたまま、まだ帰らないのです。
「おやおや、宇治山田の方から、提灯《ちょうちん》のようなものがたくさん飛んで来る」
陸《おか》を見ていたお松は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、
「お祭礼《まつり》でもないようだし、ああ、だんだん大湊の町へ近くなる」
と見ると小林の船倉あたりから、高張提灯《たかはりぢょうちん》のようなものが二つ三つ見え出してきたから、
「おや、あそこは船倉じゃないか、お奉行様のお邸のあるところだと船頭衆が言っていた、あそこから高張が出たのは、いよいよ只事《ただごと》でないにきまってる」
お松が気を揉《も》み出した時に、
「おいおい、みんな来て見ろ、町で何か騒動が始まったぜ」
船中の者共は我れ先にと船縁《ふなべり》へ出て、そうして町の方を見物しながら、
「何だ何だ、火事か盗賊か」
「心配だから、わたし陸《おか》へ上って様子を見て来ます」
お松はたまり兼ねて、船頭の助蔵に向ってこう言いますと船頭が、
「お前さん一人はやれない、行くなら誰かつけてやるが、まあもう少し待ってみなさるがよかろう」
「どうしても行ってみます、あんなに騒がしいのは只事《ただごと》ではないから」
「そんなら誰か伝馬《てんま》を押せやい、勝、お松さんを陸《おか》まで連れて
前へ
次へ
全37ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング