ければならないと思いましたのに、そう思ってここまで参りましたのに……」
お玉は情がたかぶって着物の襟《えり》を食い裂きました。
なにも礼を言われたいために危険を冒《おか》して来たのではないけれども、人の情に対する感謝の美しい一雫《ひとしずく》を見たいものと思わないではなかったのに、この人は、情というものも涙というものも涸《か》れ切った人なのか、そうでなければ天性そういうものを持って生れなかった人なのか。お玉は口惜しくって口惜しくって涙をこぼしてしまいました。
「こんな薄情なお方と知ったら、手紙なんぞを持って来るのではなかった」
神崎沖《こうざきおき》から押寄せる潮が二見ヶ浦を崩れて、今ここの入江に入って来たらしい。蓑《みの》を鳴らすような音が聞えます。
浪の音が、上から落ちて来るように颯《さっ》と響くと、一|穂《すい》の燈火《ともしび》がゆらゆらと揺れます。お玉はぶるぶると身震いをしました。
あんまり張りが強くなって、初対面の人を捉《つか》まえて薄情呼ばわりをしてしまったことを悔いるような気になって、今ゆらゆらと揺れた火影《ほかげ》からその人の横顔を見ると、その人はべつだん腹を立てた様子もないし、腹を立てようとしている様子もありませんが、こう火影から覗《のぞ》いて見ると、どうもなんとなくこの世の人ではないような気がします。蝋のように冷たく光る白い面の色、水色がかった紋のない着流し、胡坐《あぐら》を組んで、一方を向いたまま身動きさえしないでいると、その人の身体のどこからか腥《なまぐさ》い風が吹き出して水のように流れる。そうすると、お玉はゾッと水をかけられたようになって、ああこの人には生霊《いきりょう》か死霊《しりょう》がついている、怖《こわ》い人、いやな人、呪《のろ》わしい人、その思いが一時にこみ上げて、
「帰りましょう、お暇《いとま》を致しましょう」
座に堪えられないほど凄《すご》くなりましたから、与兵衛が迎えに来るのも来ないのも考えておられずに、お玉は立ちかけますと、
「まあ待ってくれ」
竜之助は静かに呼びとめる。魔物に後ろ髪を引き戻されるように、お玉は立ち竦《すく》んで、
「何か御用でございますか」
後ろを振向くと、竜之助は手さぐりにして自分の膝のまわりを撫でて、長い刀を引き寄せて、
「せっかくお使をしてくれた、なんぞお礼をしたいが、見られる通り貧乏でそのうえ不自由の身じゃ、これがせめてもの寸志、どうかこれを受取ってもらいたい」
お玉は、またもここで奇異なる思いをせねばならぬ、こんな薄情な人でも自分にお礼をしようというしおらしい心があるのか知らと思わせられたのでありました。そうして、この中でお礼とは何かと見ると、刀の下緒《さげお》の間に挿《はさ》んであったと覚《おぼ》しく、それを抜き出して手に持ったのは、意外にも一本の銀の平打《ひらうち》の簪《かんざし》でありました。
「まあ、この簪をわたくしに……」
思いがけないものを出されたから、お玉は三たびここで奇異なる感に打たれたのでありました。
「これはあり合せ、そなたの年頃に似合うか似合わぬか、それは知らぬ、下《さが》り藤《ふじ》になっているはずだが、それでも差料《さしりょう》にさわりはあるまい」
「お礼なんぞ、飛んでもないことでございます」
お玉はそれを受けようとしなかったが、今こうして簪を一本、自分にくれようとして差出した人の姿を見ると、今の先、薄情呼ばわりをして怖い人、いやな人、呪わしい人と一途《いちず》にムカムカとしてきたその人の影に、可憐《いじら》しいものが見え出して来るのでありました。それは物をくれるから好い人に見え、くれないからどうというような心ではなく、真底《しんそこ》のどこにか人の情の温か味というものがこの冷たい人の血肉の間にも潜《ひそ》んでいて、それが一本の簪を伝うて流れるそのしおらしさがお玉の胸を突いて、なんということなしにお玉は歔欷《しゃく》りあげるほどに動かされてしまったのでありました。そうしてみると、盲目《めくら》になったこの薄情な人、杖も柱もなく置かれて行くこの冷たい人が憎らしくて、そうしてかわいそうであります。
「どうも有難うございます」
「泣いているのか」
「泣けてしまいました、つい、泣けてしまいました」
「なに……何が悲しい」
「なにかしら悲しくてなりませぬ」
「別に悲しいこともなかろうものを」
「御免下さいまし」
お玉は、よよとしてそこへ泣き倒れてしまいました。
泣いて泣いて、暫らくは口が利《き》けませんでした。竜之助は冷然として燈火《ともしび》に顔をそむけて、お玉の泣くのに任せておきました。ただ所在なげなのは、その手にもてあました平打の簪《かんざし》ばかりでありました。
竜之助がはじめて京都へ上る時に、同じこの
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