男に飛びついたムクは、咽喉笛《のどぶえ》をグサと啣《くわ》えて、邪慳《じゃけん》に横に振る。
「あっ」
「憎い犬め!」
 次のが十手で一撃を加えるのを、その手を潜《くぐ》って面《かお》にガブリと噛みついた、素早いこと。
「斬れ斬れ、叩っ斬れ」
 あまりの猛勢にぜひなく白刃《しらは》を抜いて、一刀の下に斬り捨てんと振りかざせば、その刃を飛びくぐって、跳《は》ねつき、唸《うな》りつける凄《すさ》まじさ。
 獣にも攻める獣と守る獣とがあります。山野における猛獣はすべて攻める獣であって、もし獅子《しし》を攻める獣の王とすれば、守る獣の王はまさしく犬であります。真に守ることを知る犬が、その天職に殉《じゅん》ずる時は獅子と相当ることすらできるのであります。ムク犬はそのよく守ることを知る犬でありました。
 それがために、お玉は捕えられずに逃げ出すことができましたが、逃げ出したことが、お玉にとって幸か不幸か、それはまだわかりませんでした。仮りにも役目で向った人たちに、かかる猛烈な正当防衛を試むることの理非は、悲しい哉《かな》、ムク犬には判断がつきませんでした。

         八

 隠《かくれ》ヶ岡《おか》(尾上山《おべやま》)に近い荒家《あばらや》の中で、
[#ここから2字下げ]
十七|姫御《ひめご》が旅に立つ
それを殿御《とのご》が聞きつけて
留まれ留まれと袖《そで》を曳《ひ》く
それで留まらぬものならば
馬を追い出せ弥太郎殿
明日は吉日《きちにち》日も好いで
産土参《うぶすなまい》りをしましょうか
[#ここで字下げ終わり]
 これはしごく暢気《のんき》な鼻歌でありました。家の外には秋草の中に鶏頭《けいとう》が立っている。穀物だの芋《いも》だのが干《ほ》してあって、蓆《むしろ》の上で二三羽の鶏が餌を漁《あさ》って歩いていると、何に驚いてか、キャキャキャキャ、けたたましくその鶏が鳴き出して、小屋の屋根の上へ飛んで羽バタキをする、平和な田舎家《いなかや》の庭に不意に旋風《つむじかぜ》が捲いて起りました。
「また来やがったな」
 とんぼ口から飛び出したのは、一人の子供……身の丈は四尺ぐらい、諸肌脱《もろはだぬ》ぎで、手に一本の竿《さお》を持って、ひょいと飛び出したところを見れば、誰も子供が出たと思います。
 しかしよくよく見れば、子供ではないのでありました。面《かお》は猿のよう
前へ 次へ
全74ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング