く、それではお頼み申しましたぞえ……」
 夜番の拍子木《ひょうしぎ》が聞える。
 女は一封の手紙と、金包とをお玉に渡してしかじかと頼んだきりで、ふいと木戸を締めて身を隠してしまいました。
 お玉は、そこはか[#「そこはか」に傍点]な物の頼みようと思いましたけれども、遊女衆などの間には、こんなことはないことでもない、あれほどの頼み、引受けて宛名のところへとどけて上げるも功徳《くどく》であろうと、
「御安心なさいませ、きっとお届け申し上げますから」
 塀《へい》の外から請合《うけあ》ったが、この時はもう中からは挨拶がありませんでした。
「ムクや、ほんとにムクはどうしたのだろうねえ」
 お玉はいま、女から受取った手紙と金とを懐中に入れて、しきりに犬を尋ねて、備前屋のまわりを廻ると夜番に出会《でっくわ》します。
「間の山のお玉さんではねえか」
 夜番の男もまたお玉を知っていました。
「はい」
「なんでこんなところをウロウロしているだ」
「ムクが見えませんから……夜番さん、ムクをどこぞで見ませんでしたか」
「知らねえ」
「左様でございますか」
 お玉は夜番にまでムクのことを聞いてみたが、やっぱり知らないというので失望して、とうとう備前屋の周囲《まわり》を一廻りしてしまいました。

 いくらムクを尋ねても、ムクは声も形も見えませんから、お玉は已《や》むことを得ず、ひとりで帰りの路に就きます。
 来た時と同じように、町の隅の方の人目にかからないようなところを、手拭を頭から被《かぶ》って後ろへ流し、三味線を後生大事《ごしょうだいじ》に抱えてさっさと歩いて行きます。
 今宵はお客様の強《た》っての所望《しょもう》で二度まで間の山節をうたい返した上、その因由《いわれ》などを知っている限り話させられたので、これほど晩《おそ》くなろうとは思わなかった、拝田村まで帰るには淋しいところもあるのだから、こうしてみるとムクのいないことが心細い。
「お玉が帰るじゃないか」
「お玉が帰るよ」
「ひとりで帰るねえ」
「ムクがいないや、ムクを連れないでお玉が帰る」
「送ってやろうか」
「危ない」
「でも一人で拝田村まで帰すのはかわいそうだ」
「ムク犬の代りをつとめるかな、犬の代りに狼、送り狼」
 地廻《じまわ》りの連中がこんなことを言い囃《はや》すものですから、お玉もいくらか気味が悪い、それでムクのいない
前へ 次へ
全74ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング