ことが、いよいよ物淋しくなって、足の運びは駈けるようになって行きますと、ちょうど町の外《はず》れへ来た時分に、ふいに飛び出して、お玉の裾《すそ》へまつわり[#「まつわり」に傍点]ついたものがあります。
「まあ、ムクかえ、どこにいたの、どこを歩いていたの」
 お玉は嬉しくてたまらない、腰を屈《かが》めてムクの背中を擦《さす》ってやろうとすると、ムクがその口に何か物を啣《くわ》えていることを知りました。
「何だえ、お前、何か啣えているね」
 頭を撫でながら、ムクの啣えているものを取りはずして見ると、それは思いがけなく一組の印籠《いんろう》でありました。
「おや、結構な印籠が……」
 お玉はそれを、町の方へ向けてなるべく明るいようにして、仔細に見ると、梨子地《なしじ》に住吉《すみよし》の浜を蒔絵《まきえ》にした四重の印籠に、翁《おきな》を出した象牙《ぞうげ》の根付《ねつけ》でありましたから、
「こんな結構な印籠を、お前どこから持って来たえ、拾ったのかえ、どこで拾ったの」
 犬は神妙に首を俛《た》れております。
「これは並大抵《なみたいてい》の人の持つ品ではない、きっと立派なお侍さんの持物だよ、御番所へお届けをしよう。でもこれから帰るのもなんだかおっくう[#「おっくう」に傍点]だから、明日の朝にしましょう、明日の朝、少し早く起きて、出がけに御番所へ届けるとしましょう」
 お玉は、その印籠をまた懐中へ入れますと、前に備前屋で女衆から頼まれた手紙と金包とに気がついて、今宵は懐の重いことをいまさらに感づいたようでした。
「おや、足の方は泥だらけになって。それにお前、怪我《けが》をしているね。おや、この顋《あご》のところから血が……」
 大した怪我ではないが、ムクはたしかに怪我をしている。
「洗って上げるからおいで、そこの流れで洗って、創《きず》を巻いて上げるから」

         六

 お玉が帰ってからその晩は無事でありましたが、朝になると、備前屋の楼上で二つの大変が持ち上りました。その一つの大変は、ゆうべ音頭を見て、間の山節を聞いて、酔うて寝た五人づれの侍が朝起きて見ると、一人残らず懐中のものを奪われていることでありました。
 さすがに腰の物だけは残されてあったが、懐中物の全部と、印籠までも盗《と》られてしまいました。
 あっと面色《かおいろ》を変えたものもある、なあーに
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