の広間と、うすぼんやりの燈籠の庭では前に記したような光景であります。
広間では五人づれの若侍が、風流の気取りで聞いている。取巻きの連中は、忌々《いまいま》しい腹で聞いている。ここの二階では、死ぬつもりで聞いている。お玉は無心で、母親から伝えられたという節のままを天性の才能で唄っている。
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野辺より彼方の友とては……
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この時、表に待っていたムク犬が、低く唸《うな》るように声を引いて吠えました。ムク犬が声を立てることは珍らしい。しかし、この時の吠え声は人を驚かすほどに高い声ではなかったから、誰もムク犬が鳴いたとさえ気がつかなかったのを、弾きさしていたお玉の三味線にはそれがこたえて、お玉はハッと撥《ばち》を取落すばかりにしました。
ムク犬の吠える時は、お玉にとっては、きっとそれが何かの暗示になります。
二声目を聞こうとしたが、それはそれだけで納まって、それからムク犬は吠えませんでした。
お玉は、いくらかの紙包を貰って備前屋を出た時分は、もう夜もかなり更《ふ》けていました。門を出ればムク犬が待っていて、尾を振って迎えるはずのが、どうしたものか影も形も見せないのです。
「ムクや、ムクはどこへ行ったろう」
お玉は呼んでみましたけれども、ムク犬は声も形もあらわしません。ムク犬が、お玉と一緒に来て、一緒に帰らぬことは今までにないことであります。ことに今宵《こよい》は帰れというのを聞かないで一緒に来て、来てみれば帰る時は姿を見せぬ、さっき低く吠えた時と言い、今こうして見えなくなったことと言い、お玉の胸には安からぬ思いであります。
「ムクや、ムクや」
呼びながら、この備前屋の裏の方へ廻ってしまいますと、
「もし」
暗いところから声があったのは、尋ねるムク犬の声ではなくして、細い女の声でありました。
「はい」
お玉は足をとどめますと、裏の木戸をそっ[#「そっ」に傍点]とあけて、
「お前様は、あの、お庭で間の山節を唄いなすったお玉さん」
「左様でございます」
「お見かけ申して、お頼み申したいことがありまする」
「何でございますか、叶《かな》いますことならば」
「委細はこれに認《したた》めてござりまする、この手紙とこのお金、これをお届け下さりませ、届け先は……それはこの手紙の表に書いてありまする、こうしている間も心が急《せ》
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