命を殞《おと》すことのあり得べきお方ではない、もし先生が死なれたとすれば、病難、剣難のほかの、人間の手ではどうしても防ぎきれない天災によって殺されたと思うことのほかには想像が届かないのでありました。
「それは偽り、嘘にきまっている」
「あなたという人は、思いのほか不人情なお方ですねえ、現在自分のお師匠様が亡くなられたのにそれも知らず、せっかくそれを知らして上げようとするのをお耳にも入れず、それで武士道とやらが立ちますならば御勝手になさいまし……わたしは人柄がこんなで身を持ち崩してしまったから、真剣に言っても浮気に取られるのが口惜《くや》しい、わたしだって時と場合によれば、ずいぶんこれで涙脆《なみだもろ》いことがありますのよ。あの御徒町《おかちまち》の島田虎之助先生とも言われるお方が、人手にかかってお果てなさるとは……」
「ナニ、人手にかかって?」
「そのお話を聞いた時は、わたしのようなものでも涙がこぼれましたねえ、あの先生がまあ……」
「島田先生が人手にかかって……いよいよそれは偽りじゃ、嘘じゃ、人手にかかって亡くなられる、そのようなはずがない、余人ならば知らぬこと、島田先生が人手にかかって――そんなこと、そんなことのあるべきはずがない、天地が逆《さか》さになったとて」
兵馬の舌がおのずから縺《もつ》れる。
「それほどわたしの言うことを御信用なさらないのなら、それでようございます、もう何も申し上げますまい。なるほど、島田先生は人手にかかるお方ではない、今の世に尋常であの先生を手にかけるような手利《てきき》はないにきまっている、それはあなたのおっしゃるまでもないこと、誰でも知っていますけれど、なにも刃物ばかりが人手ではなし……」
「そんならどうして先生が」
「毒ですよ、島田虎之助先生は毒を盛られておなくなりになりました」
「毒?」
兵馬の渾身《こんしん》の血が逆流するかと見えました。
「それだけお話し申し上げたら、もうわたしの役目も済みました、それではこれでお暇を致しましょう」
「ま、待って、もう暫く」
攻守勢いを異にしてしまい、兵馬はお絹の袖を捉《とら》えてはなさないのでありました。
「わたしのお呼立てしたことが、真剣でしたことか浮気でしたことか、それがおわかりになれば、わたしはもうお暇を致します」
「よく教えて下された、嘘《うそ》か真《まこと》か、そのような
前へ
次へ
全74ページ中71ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング