分柄にもないことをなさる、嗜《たしな》まっしゃるがようござるぞ」
 兵馬は苦《にが》りきって、なおお絹の面を睨《にら》めていると、
「そんな悪戯《いたずら》をするつもりではありませんでしたけれども、ついあなたのお姿を見たものですから、こんなことになってしまって」
 兵馬の真面目になって苦りきっているのが、この女にはかえって面白いことのように見えるらしく、
「この間、古市の町で、背の小さい男が竿を振り廻していた時、それへ槍をつけたのは宇津木さん、あなたでしょう、運悪くそれをわたしが見ちまったのですよ。珍らしいところで珍らしい人に会って、わたしはなんだかゾクゾクと懐《なつか》しくなってしまったものだから、あれからちゃんと、あなたの行方を突き止めていたんですよ、そうしてまたあの手紙を上げて、あなたをここまでお呼び申したのですよ。よく来て下さいましたね、ホホ」
 自分が綱を引きさえすれば兵馬などはどうでもなるように、呑みきっている物の言いぶりでしたから兵馬は勃然《むっ》として、
「お暇《いとま》を申します」
 袖を振って歩き出すと、
「そんなにお怒りなさるものじゃありませんよ、まさかわたしの名で手紙も出されませんから、七兵衛の名を借りてあなたをここまでお呼び申したのは、あなたからはお松やなんかの行方も聞きたいし、わたしからはぜひともあなたにお知らせ申したいことがありますから……」
 兵馬はそんな言葉を耳にも入れず、さっさと行ってしまおうとすると、
「あの、宇津木さん、兵馬さん、島田先生は死にましたよ、あなたはそれを知ってますか」
 この一語は兵馬を驚かさないわけにはゆきませんでした。
「ナニ、島田先生が亡《な》くなられた?」
 ズカズカと立戻ってしまいました。
「ソレごらんなさい?」
「島田先生が亡くなられたというのは、そりゃ真実《まこと》か」
「どうですか」
「そりゃ偽《いつわ》りだ、出立の時まであの通り壮健でござった先生が……」
「偽りなら偽りでようござんす、御信用のない者にお話をしたって詰《つま》りませんから」
「そんなはずはない、嘘だ、偽りだ」
 兵馬はそれを言い消してみたけれども、決して心が安んじたわけではありませんでした。まだ老病で死なれる歳ではない、また苟且《かりそめ》の病に命を取られるような脆《もろ》い鍛錬のお方でもない、いわんや刀刃《とうじん》の難によって
前へ 次へ
全74ページ中70ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング