》へ指を当てがい、下の方へ締めつけると、ブラブラしていた手は忽ちもとのようにひっかかります。
 懐中紙入を出すと、一|挺《ちょう》の剃刀《かみそり》のようなものを引き出して、それで身体のあちらこちらを一寸二寸ずつ、スーッスーッと切って廻る。
「お爺《とっ》さん、手拭を持っているかい、その手拭を河原へ行って濡《ぬ》らしておいで、絞《しぼ》らないでいいよ、それから、足へ捲く布《きれ》が欲しいな、その三尺で結構、ナニ、晒《さらし》を持って来たって、そんならなお結構」
 道庵先生は折れた右足の脛《すね》を晒《さらし》で捲く、濡らして来た手拭を頭と顔へ捲いて肩井《たちかた》を揉《も》んで背を打つと、
「うーん」
「そうら生き返った」
「生き返りましたか」
「早く家へ連れて行って寝かしておけ、明日また俺が行ってやる」
「有難うございます、明日も来て下さいますか」
「行ってやるとも」
「有難うございます、大湊の船大工で与兵衛とお尋ねになれば直ぐおわかりになりますから」
「大湊の与兵衛……よし来た」
「それから先生、わたしがこうしてここで先生のお世話になったことはどうぞ御内分《ごないぶん》に。人に知られると困るんでございますから」
「安心しろよ」
 道庵先生はまた堤《どて》の上へゴロリと寝てしまいました。

         十九

 お絹は、二見ヶ浦の海岸の清涯亭《せいがいてい》という宿の離れにつづいた四阿《あずまや》の中で、長いこと人を待っているのでありました。やがて、編笠を被《かぶ》って海岸伝いにやって来る一人の武士《さむらい》がありました。
 武士は松林の中を歩んで来る、お絹は、それを迎えるように松林の中へ入る。武士というけれども、まだごく若い人のようであります。
「宇津木さん、ここよ」
 若い武士は歩みをとどめて笠を傾《かた》げてこちらを見る。
「お前様は――」
「ええ、お松の仮親《かりおや》のわたくしでございます、さっきから待っておりました」
 この武士は宇津木兵馬でありました。兵馬は呆《あき》れたような面《かお》をしてお絹を眺めたままで立っています。
 お絹の方は、いっこう平気らしく、
「宇津木さん、さだめてまたかとお驚きなすったでしょう、けれどもね、今度は前とは違いますよ、前とは違って真剣にあなたにお話をして上げなければならないことがあるのですから」
「お前様は御身
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