、それもちっとやそっと高いところから落ちたんじゃねえ。野郎、喧嘩をしたな、喧嘩をして簀捲《すま》きにされて高いところから突き落されたんだ、これここに縄のあとがある、縄でギューギュー引括《ひっくく》られて突き落されたんだ、人をばかにしていやがる」
「先生、それに違いありません、どうかお静かに願います」
「お静かに? よし、それでは静かにしてやる」
 道庵先生は、わざと段違いの低い声をする。
「まだ脈はございましょうか、見込はございましょうか」
 身体《からだ》を一通り撫でてみた道庵先生が、
「ある!」
「ありますか」
「生きる!」
「ほんとに生き返りますか」
「大丈夫!」
「助かりますか」
「助かる!」
「どうか助けてやっておくんなさいまし」
 老人は意気込む。
「あたりまえの野郎なら、助かりっこのねえところだが、この野郎のは助かるように出来ている」
「へえ」
「息を吹き返させるのは雑作《ぞうさ》はねえが、その前に痛みどころを繕《つくろ》っておかねえと、息を吹き返してからかえって苦しがる」
「へえ」
「まず肩胛骨《かたぼね》が外《はず》れている、それで左の手がブラブラだ」
「へえ」
「頸椎《くびのほね》には異状がない」
「へえ」
「胸脇《むねわき》の骨が折れて肺へでも触《さわ》ろうものなら見込みはないが、そこにも異状がない」
「へえ」
「脳蓋《のうがい》といって頭の鉢を打《ぶ》ち割ればこれも望みはないが、幸いにその鉢の頭も無事だ」
 頭の鉢というのを鉢の頭といってのけました。当人は気がつかないで澄ましていたが、傍《かたえ》の老人はこの場合にもおかしさを噛み殺さずにはいられませんでした。
「腰骨《こしぼね》にも横骨《よこぼね》にもこれまた異状はない、右の方の脛《すね》の骨が折れている」
「へえ」
「そのほか、身体中、処嫌《ところきら》わず打創《うちきず》かすり創だが、それらは大したことはない」
 おかしなお医者さんだけれども、その診方《みかた》の親切なこと、そうして暗い中で、どこがどう、ここがこうということを掌《たなごころ》を指すように言ってみせるから、はじめは険呑《けんのん》がっていた老人が、そぞろに信頼の念を高めてしまいました。
「おい、お爺《とっ》さん、この人をこうして押えておいで」
 道庵先生は小男を半分起して、そのブラリとした左の手を持って腋《わき》の下《した
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