疑いを申していられることではない、お礼を申し上げまする」
 兵馬の眼から涙が落ちる。
「いいえ、お礼では痛み入ります。ああ、これでわたしの心持が届いて嬉しい」
「どうか御存じならば、もう少し詳しくそのことをお話し下さらぬか」
「知っているだけは、お話し申しましょうとも。けれども、こんなところではお話をしにくいから、あれへ参りましょう、あの清涯亭《せいがいてい》という宿、あそこに申し付けてありますから、静かなところで、ゆっくりお話し申し上げたいと思います」
「いや、それは……」
 兵馬はそれを躊躇《ちゅうちょ》しました。

 ほどなく兵馬の姿は大湊の町の船着場《ふなつきば》へ現われました。あの場ではお絹を怒らせて袖を振り切ってここへ来てしまいました。
「兵馬さん」
 お松は船の仕事着ではなく小綺麗《こぎれい》の身扮《みなり》をして、船着場の茶屋に待っています。
「今日はどちらへおいでになりました」
「二見の方へ」
「藪《やぶ》の中やなんかをお通りなさったらしい、こんなに草の実がついておりまする」
 お松は兵馬の袴《はかま》の裾《すそ》についた草の実や塵《ちり》を払ってやる。
「松林の中を無暗《むやみ》に歩いたものだから、ずいぶん息も切れました」
 兵馬は腰掛に休んで茶を飲む。
「あ、それからお松、今日はまた珍らしい人に会ったぞ」
「珍らしい人とおっしゃるのは?」
「お前の親類じゃ、当ててみるがよい」
「わたしの親類と申しましても……」
 お松にも親類の人もある、世話になった人もあるけれど、それらの記憶を呼び起すとあまり好い心持はしないのでした。
「それはお前にとっては怖《こわ》い人ではない、どちらかと言えば懐《なつか》しい人だ、懐しい人だろうけれど、油断はできない人だ」
 兵馬はわざと廻りくどく言ってみせると、
「まあ、誰でしょう、わたしの親類でそんな人――もし本郷の伯母さんでは……」
 本郷の伯母さんという人は、お松を島原へ売った人、不人情で慾が深くて、そのくせ口前《くちまえ》のよい人。
「いや、そんな人ではない。言ってみようか、それは湯島妻恋坂のあの花のお師匠さんじゃ」
「まあ、お師匠さんに?」
 お松は、絶えて久しい妻恋坂のお師匠さんのことを兵馬の口から聞いて、そぞろに昔のことが思われてたまりません。この時、町の方からがやがやと噪《さわ》がしい人声、
「いや、与
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