貧乏でそのうえ不自由の身じゃ、これがせめてもの寸志、どうかこれを受取ってもらいたい」
お玉は、またもここで奇異なる思いをせねばならぬ、こんな薄情な人でも自分にお礼をしようというしおらしい心があるのか知らと思わせられたのでありました。そうして、この中でお礼とは何かと見ると、刀の下緒《さげお》の間に挿《はさ》んであったと覚《おぼ》しく、それを抜き出して手に持ったのは、意外にも一本の銀の平打《ひらうち》の簪《かんざし》でありました。
「まあ、この簪をわたくしに……」
思いがけないものを出されたから、お玉は三たびここで奇異なる感に打たれたのでありました。
「これはあり合せ、そなたの年頃に似合うか似合わぬか、それは知らぬ、下《さが》り藤《ふじ》になっているはずだが、それでも差料《さしりょう》にさわりはあるまい」
「お礼なんぞ、飛んでもないことでございます」
お玉はそれを受けようとしなかったが、今こうして簪を一本、自分にくれようとして差出した人の姿を見ると、今の先、薄情呼ばわりをして怖い人、いやな人、呪わしい人と一途《いちず》にムカムカとしてきたその人の影に、可憐《いじら》しいものが見え出して来るのでありました。それは物をくれるから好い人に見え、くれないからどうというような心ではなく、真底《しんそこ》のどこにか人の情の温か味というものがこの冷たい人の血肉の間にも潜《ひそ》んでいて、それが一本の簪を伝うて流れるそのしおらしさがお玉の胸を突いて、なんということなしにお玉は歔欷《しゃく》りあげるほどに動かされてしまったのでありました。そうしてみると、盲目《めくら》になったこの薄情な人、杖も柱もなく置かれて行くこの冷たい人が憎らしくて、そうしてかわいそうであります。
「どうも有難うございます」
「泣いているのか」
「泣けてしまいました、つい、泣けてしまいました」
「なに……何が悲しい」
「なにかしら悲しくてなりませぬ」
「別に悲しいこともなかろうものを」
「御免下さいまし」
お玉は、よよとしてそこへ泣き倒れてしまいました。
泣いて泣いて、暫らくは口が利《き》けませんでした。竜之助は冷然として燈火《ともしび》に顔をそむけて、お玉の泣くのに任せておきました。ただ所在なげなのは、その手にもてあました平打の簪《かんざし》ばかりでありました。
竜之助がはじめて京都へ上る時に、同じこの
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