ければならないと思いましたのに、そう思ってここまで参りましたのに……」
 お玉は情がたかぶって着物の襟《えり》を食い裂きました。
 なにも礼を言われたいために危険を冒《おか》して来たのではないけれども、人の情に対する感謝の美しい一雫《ひとしずく》を見たいものと思わないではなかったのに、この人は、情というものも涙というものも涸《か》れ切った人なのか、そうでなければ天性そういうものを持って生れなかった人なのか。お玉は口惜しくって口惜しくって涙をこぼしてしまいました。
「こんな薄情なお方と知ったら、手紙なんぞを持って来るのではなかった」
 神崎沖《こうざきおき》から押寄せる潮が二見ヶ浦を崩れて、今ここの入江に入って来たらしい。蓑《みの》を鳴らすような音が聞えます。
 浪の音が、上から落ちて来るように颯《さっ》と響くと、一|穂《すい》の燈火《ともしび》がゆらゆらと揺れます。お玉はぶるぶると身震いをしました。
 あんまり張りが強くなって、初対面の人を捉《つか》まえて薄情呼ばわりをしてしまったことを悔いるような気になって、今ゆらゆらと揺れた火影《ほかげ》からその人の横顔を見ると、その人はべつだん腹を立てた様子もないし、腹を立てようとしている様子もありませんが、こう火影から覗《のぞ》いて見ると、どうもなんとなくこの世の人ではないような気がします。蝋のように冷たく光る白い面の色、水色がかった紋のない着流し、胡坐《あぐら》を組んで、一方を向いたまま身動きさえしないでいると、その人の身体のどこからか腥《なまぐさ》い風が吹き出して水のように流れる。そうすると、お玉はゾッと水をかけられたようになって、ああこの人には生霊《いきりょう》か死霊《しりょう》がついている、怖《こわ》い人、いやな人、呪《のろ》わしい人、その思いが一時にこみ上げて、
「帰りましょう、お暇《いとま》を致しましょう」
 座に堪えられないほど凄《すご》くなりましたから、与兵衛が迎えに来るのも来ないのも考えておられずに、お玉は立ちかけますと、
「まあ待ってくれ」
 竜之助は静かに呼びとめる。魔物に後ろ髪を引き戻されるように、お玉は立ち竦《すく》んで、
「何か御用でございますか」
 後ろを振向くと、竜之助は手さぐりにして自分の膝のまわりを撫でて、長い刀を引き寄せて、
「せっかくお使をしてくれた、なんぞお礼をしたいが、見られる通り
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