い」
「さきほど、この石段を下へおりて行きました」
「石段を下へでございますか」
「いかにも」
「そんなら、行違いに家へ帰っておりはせんか」
金蔵は上りかけた足を石段から引いて、
「それでは、帰ってみましょう」
もと来た方へ引返して大急ぎで駈けて行きます。
兵馬は、そのあわただしさに笑いを禁じ得なかったが、そんなことは別に兵馬の気にかかることではない、気にかかるのはあの護摩壇のことだ――堂の傍へ近寄ると、中から修験者の声で、
「何者だ!」
と呼ばれたが、強《し》いて土地の人が神聖と立てる修法《しゅほう》を妨げるのもよくないと、帰っては来たが、なんとなくあの護摩壇に心が残るようだ。よし、改めて修験者に会ってみよう。
こう心をきめて室町屋まで帰って来ると、家は思いのほかヒッソリしていました。雨が降っているから、障子を立て通しにしてあったのをあけて入ると、帳場のわきに金蔵が苦《にが》り切って坐っている、その傍には番頭がピリピリして跪《かしこ》まっている。
「お帰りなさいまし」
と言ったが張合いのない声でした。苦り切った金蔵と兵馬とは、ふと面を見合せると、兵馬は、いま石段から転げ落ちた人が、どうやらこの人らしいと思ったが、そのままにして、自分は己《おの》れの部屋へ入ってしまいます。
床を展《の》べに来た女中に聞いてみると、お内儀《かみ》さんが、さっき出たまま、まだ帰らないので、旦那様が焦《じ》れて怒っているのだと言いました。そんなことは兵馬が聞いたって別に心配することではありませんでした。
兵馬が二階へ上った時分、金蔵の眼が一層|険《けわ》しくなって、天井を睨《にら》みつけたようでしたが、
「喜六、今のはありゃ、うちのお客か」
「へえ、左様でございます」
「いつごろから来た」
「旦那様が、和歌山へお出かけになって間もなく」
「そうか……」
金蔵は番頭からこれだけ聞いて、また兵馬の通って行ったあとを睨みつけて、
「一人か」
「へえ、お一人でございます」
「侍のようだな」
「左様でございます、十津川騒ぎからこちらへお越しになりました、藤堂様の組だそうでございます」
「何しに来たのだ」
「兄様《にいさま》の仇《かたき》をたずねておいでだそうでございます」
「兄の仇?」
金蔵は、また苦り切って押黙《おしだま》ったが、
「聞いて来い、今のあの若侍に聞いて来い」
突然、猛《たけ》るような大きな声でこう言い出したので、番頭は、
「何でございます、何をお聞き申すのでございます」
「あの若侍が知っている、お豊の行きどころを知っている」
「あの方がでございますか。あの方がお内儀さんの……」
「知っている、聞いて来い」
金蔵は、怒鳴《どな》りつけて番頭を立たせました。
番頭は、何のことだか一向わからないけれど、まあ言われる通りに聞いてみようと、怖る怖る兵馬の部屋をさして出かけて行きます。
「そうだ、それに違いない――」
金蔵は、ひとりで歯噛みをしています。
「前髪立ちの若衆《わかしゅう》と、三十前の年増《としま》だ……年上の女に可愛がられていい気でいる奴もあれば、ずんと年下の男を滅法界《めっぽうかい》に好く女もあらあ――油断《ゆだん》がなるものか。第一、こちらからお豊のやつが上って行く、上から若侍が下りて来る、ほかに誰がいた、証拠を押えたようなもんだ――お豊を隠しやがったな、あの若いのが」
金蔵の眼は、みるみる火のように燃えてゆきます。
金蔵は英雄でも偉人でもないけれど執念深い――執念のためには命を投げ出して悔いない男である。思い込むと蛇のように執拗《しつこ》くなる男であります。飛んでもない、人もあろうに宇津木兵馬は、この男の怨《うら》みの的《まと》となってしまいました。お豊と兵馬とは金蔵の留守の間に不義をした――と思い込んでしまった金蔵の怨みは、もう、誰がなんと言っても解けません。
「覚えてやがれ!」
この二月《ふたつき》ほど真人間《まにんげん》に返って、驚くほど堅気《かたぎ》になり、真黒くなって家業に精を出し、和歌山へ行ったのも宿屋の実地調べで、これからますます家業へ身を入れようとした金蔵の心が、またもがらり[#「がらり」に傍点]と変って、もとの無頼漢になるのです。
兵馬が旅日記を書き終って、いま寝ようとするところへ、金蔵がやって来ました。
「御免下さい」
言葉が荒っぽく、眼の色が血走って立居《たちい》が穏《おだ》やかでない。
「これは、どなたじゃ」
「へえ、金蔵と申しまして、ここの亭主でございます。お初《はつ》に――いや、さっき竜神の石段でお目にかかったのは、たしか、あなた様でございましたな」
「左様、貴殿が御亭主でござったか、留守中お世話になりました」
「時に、あなた様――」
金蔵は眼に角《かど》を立てて、口のあたりが引きつり、呂律《ろれつ》が怪しい、よほど飲んで来たものです。
「お前様のおっしゃるには、わしの女房のお豊は、うちへ帰っているはずでございますが、まだ帰っておりませんぜ」
「なに、御内儀《ごないぎ》が……」
兵馬は金蔵の言いがかりぶりが無礼に見えるので、少し向き直り、
「まだお帰りがない? 拙者は、あの社内《やしろうち》でちょと会うたばかりだからその後は知らぬ」
「いったい、お豊のあま[#「あま」に傍点]は、何のために、この夜中《やちゅう》に、あの社内へ出かけたものでござんしょうねえ、お武家様」
「何のためとは」
兵馬が、そんなことを知るはずはないのを、金蔵はからみつくように、
「お前様は、それを御存じであろうと、わしはこう睨《にら》んだのだ」
「なんと、拙者がそれを知っている?」
「そうでございます、あの、人も行かない淋《さび》しいところを、この夜中に、つまり人眼を忍んで、行きつ戻りつなさったのは、うちのお豊と、それからお前様のほかにはない」
「うむ」
「ですから、わしは、お前様とお豊とが、しめし合せて、なにか人に聞かれて都合の悪い話を、あそこで、おやりなすったものとこう思うんだ」
「滅多《めった》なことを言われる」
兵馬は屹《きっ》となった。見れば酔ってもいるようだが、それにしても聞き捨てならぬ一言である。
「ナニ、滅多なことが、どうしたんだ。さあ女房を出せ、おれの女房のお豊を出せ。前髪のくせに、ふざけたことをしやがる。どこへ隠した、早く、おれの女房のお豊を出せ!」
金蔵は、持って来た脇差《わきざし》を抜いて振りかぶり、大胆にも兵馬をめがけて切ってかかりましたけれど、これは問題にもなんにもなりません、すぐに刃《やいば》は打ち落されて、兵馬の小腕に膝の下へ引据《ひきす》えられ、
「無礼にもほどがある――店の衆――誰かおらぬか」
兵馬は金蔵を組み敷いておいて、声高く店の者を呼びました。
金蔵は家族や店の者が総出でつかまえて、欺《だま》し賺《すか》しつつ引張って行きました。
父の金六は兵馬の前へ頭を下げて詫《わ》びをする。兵馬は別に深く咎《とが》めるつもりはないが、言いがかりにしても潔《いさぎよ》くない言いがかりだと思いました。
明日は宿を換えようと心に決めながら浴室へ行く、寝る前に一度、湯に入ることがきまりになっている。そこから浴室までは大分ある。
兵馬は手拭を持って長い廊下をしずしずと歩んで行く。お客が少ないから明間《あきま》が多く、蒲団《ふとん》や夜具を抛《ほう》り込んだままのもある――兵馬は足音しずかに行くと、そのうちの一間からふいに飛び出して廊下を横に切って、忍び足にかけ行くものがある。面《かお》は手拭でかくして手には何やら包みを持っています。
怪しい奴! 兵馬は直ぐに泥棒だと感づきました。見のがせることではない――今しも、開け放してあった雨戸の口から外へ出ようとする盗賊の襟首《えりくび》を持って引き下ろしました。
兵馬であったからよい、ほかの者ならば、けたたましく、泥棒! 泥棒! と鳴りを立てるところです。兵馬に無言で引き下ろされて、泥棒の力のまた脆《もろ》いこと、一たまりもなく引き倒されて、
「どうぞ、御勘弁下さいまし、お見のがし下さいまし」
賊は手を合せて拝むと、兵馬はかえってそれに驚かされました。
「おお、そなたは……」
「何もおっしゃらず、どうぞ、お見のがし下さいませ」
「合点《がてん》のゆかぬこと」
この泥棒はお豊でした。兵馬には、なんだか実にわからなくなってしまいました。
「これには深い仔細《しさい》のあることでございます、どうぞ、お情けに何もお聞きなさらず、このままお見のがしを願いまする、あとでわかることでございますから」
面をかくした手拭をとりもせずにお豊は、一生懸命で兵馬に見のがしてくれと歎願するのです。
「そなたの夫、金蔵殿とやらは、そなたを探しておられますぞ」
「はい、金蔵に知れますと、わたしは殺されてしまいまする、どうぞ、お慈悲に、このままお見のがしを願いまする」
見逃すべきであるか、捉《とら》えて夫に引渡すべきであるか、兵馬も、しばしその扱いに迷うたのでありましたが、あの無茶な乱暴男、この有様を告げたら、なるほど、この女の言う通り女は殺されてしまうだろう、まあ、この場は見のがしておいた方がよかろうと兵馬も分別《ふんべつ》しました。
「どうぞ、お見のがし下さいませ、決して、あなた様のお身に御迷惑のかかるようなことは致しませぬ、一生の御恩でございます」
お豊は包みを拾い上げて、戸の外の闇へ飛び下ります。
兵馬はそれを追いかける気になりませんでした。
十一
兵馬はその翌日、宿をかえた――兵馬には、こんなばかばかしいことにかかわっていられない。金蔵が恨もうと、お豊が帰るまいと、別に心に残ることはなかったが、兵馬が去ってから後の室町屋には大変が出来《しゅったい》しました。
その晩のこと、金蔵が荒《あば》れ出した――その荒れ方も尋常ではない、一室に押込めて、家中総出で警戒していたにもかかわらず、金蔵はついに荒れ出して脇差を抜いた。それでもって、支える奴を縦横無尽に斬り立てた。
父親の金六も手を負わされた、母のお民も斬られた。
それから、台所に飛んで出て、火を焚いていたおさんどんを蹴飛《けと》ばして、その火を取って投げ散らした――その火は障子についてめらめら[#「めらめら」に傍点]と燃え上る。
血に染《にじ》んだ脇差を振り廻して表へ飛んで出た。
忽《たちま》ちの間に湯元村をひっくり返すほどの騒ぎとなった。
金蔵が血刀を引っかぶって通りへ飛び出して、
「お豊、兵馬」
と名を呼んで二人を求めんと狂い廻る。兵馬はこの時、こんなこととは知らずに神木屋というのへ宿を替えて、その朝は、昨夜のあの護摩壇《ごまだん》へ行こうとして大師堂の傍まで来たのであったが、不意に火事よという声で振返って見ると、すぐ眼の下の、室町屋のあたりから黒煙が渦《うず》をまく。
兵馬も宿には大事のものが残してないではない。心にかかるからそのまま引返して湯元へ来ました。
火事は室町屋から出たので、今しも台所を吹き貫《ぬ》いて、二階の廊下を焼き抜いて、真紅《まっか》の炎《ほのお》がメラメラとのぼる。
兵馬は神木屋へかけ戻って、店の若い者と一緒に始末をしている。
「室町屋の若主人が、急に気がふれ出した……」
兵馬は合点した。あの金蔵という奴が荒《あば》れ出したな――こうと知ったら、もう少し手厳《てきび》しく戒《いまし》めておけばよかったと思いました。
けれども、金蔵は三輪でやらなかったことをここでやるのですから、どのみち金蔵としては、やるべきことをやってしまいました。お豊もまたあの時、金蔵を捨てるはずのを今ここで実行したものですから、お豊がなくなって金蔵の執念が勃発《ぼっぱつ》するのはあたりまえのことでありました。
兵馬は、それを知らないで、ただ無茶な乱暴男もあればあるものと思っています。
この火事は人家の方へ出なかったけれども、それより悪いことは、山へうつってしまったことです。人家の火事は消しようがあるが、山の火事は
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