消しようがない――室町屋の裏手へつづく杉林に、それが燃えついたからたまりませんでした。
 目通り何尺、高さ何丈という大木に火のついたほど始末に困るものはありません。登るには登れず、水をかけようにも下からは届かず。
 それを防ぐには、伐り倒すばかりであります、と言って、それほどの大木を苧殻《おがら》を切るようなわけにはゆきません。
 いよいよ杉山に火がうつった時、各字《かくあざ》の者は手を束《つか》ねて、せめて、人家へ焼け出さないように用心するよりほかはありませんでした。
 人が手を束ねて見ていれば、火はいい気になって延びる、この山を焼き抜いてあの山へと、遠慮なく延びる。
 それでも竜王社の方面は消防に力をつくしたために火の手が鎮まったが、これはかえって一方に火勢を追い込んだようなもので、山の手に向う火の手は更に一層の勢いを加えることになりました。木がなくなるところまで焼け抜いておのずから止まるか、そうでなければ、天の池が乾くほどな大雷雨でも来《きた》らぬ限りはこの山火事が続きそうだ。
 人間業《にんげんわざ》でこの火を防ぐはあの護摩壇の法力《ほうりき》あるばかりだと、そこへ気がついた各村の総代は、打揃って裸になって水垢離《みずごり》をとって、かの護摩壇の修験者へ行って鎮火の御祈祷を頼むと、修験者は、
「遅い、遅い」
と冷淡に言ってのけた。
「昨夜、人知れず、御禊《みそぎ》の滝で水を浴びた女をつれて来い……その女が竜神村の禍《わざわ》いじゃ、その女をつれて来い」
 さては、女の身でこの神聖な竜神の霊場をけがした者がある。その女を捉《つか》まえて、人身御供《ひとみごくう》に上げるでなければ、この火は鎮まらぬ、火を消すよりも、その女を求めることが急だ。
 土地の人は血眼《ちまなこ》になって飛ぶ――
 その女というのは誰――火を出した室町屋の女房、昨夜から行方知れずになったというお豊が怪しい。お豊はどこへ行った。室町屋の内儀はどこへ行った。
 兵馬はこの時、ぜひなく神木屋にとどまって火を心配していた――今日あたりは七兵衛お松がこの地へ着くはずであるのに、あの火が道をふさぎはすまいか。
 昨夜から降ったり止んだりしていた雨が、この時分になって、だんだん大降りになってきた。
 その翌朝、山火事はいよいよ盛んに燃えている。雨もどんどんと降りつづいている。お豊を探すべく八方に飛んだ人がまだなんとも報告を齎《もた》らさないうちに、またしても人を驚かす報告が一つ持ち来《きた》された。
「河原に人が殺されている」
 それを見つけたのは里の子供でした。村の人が駈けつけて見ると、昨夜来の雨で日高川の水嵩《みずかさ》が急に増した。蛇籠《じゃかご》にひっかかった一つの体はまだ若い男でありました。
「室町屋の金蔵さんだ!」
「斬られてる!」
 それはたしかに金蔵である、斬られていることも確かである。
 宇津木兵馬は宿の人に頼まれてその検視に行った。
 兵馬が金蔵の死骸《しがい》を見て衷心《ちゅうしん》から驚いたのは、その死にざまが怖ろしいからではない、また彼の身の成る果てを不憫《ふびん》と思いやったからというのでもない、その斬口《きりくち》の鮮《あざや》かさ! 心得ある人より見れば、斬口でその斬った人の手腕がわかる、否《いな》、手腕のみではない、それが何流の剣道に出でてどの程度まで行った人だということもわかるはず。
 右の肩から真直ぐに、それは力任せにやったのでも何でもない――冷笑しきって軽く一振り、曳《えい》とも言わず二つに切って落すべきものを落さずに、いくらか残しておいて刀を鞘《さや》に入れたが、おそらく血は刀に附く遑《いとま》がなかったろう――切ると一緒に高いところから足で蹴落《けおと》して(その証拠には、かすり疵《きず》がいくつもある)、下へ転《ころ》がって行く屍体の音を聞きながら、蚊をつぶしたほどにも思ってはいなかった――兵馬の眼には、斬った人の面影《おもかげ》がありありと浮ぶ。

         十二

 眼の前にあっても、時が来《きた》らねば会えません。竜之助と兵馬とは、山城、大和、伊賀、紀伊の四カ国を、あとになり、先になって、往《ゆ》きつ戻《もど》りつしましたけれど、とうとうそのいずれでも会うことができないのです。竜之助は敢《あえ》て兵馬を怖れて逃げ隠れているのではない。兵馬は目の先に近づいて、それでどうも刃《やいば》を合せることができないのです。
 今、ここに竜神村の災難、七兵衛やお松がどうしてここへ来るかを知らねばなりませんけれど、兵馬はそれを顧みている遑《いとま》がない。
 竜之助の落ちて行く方面は、日高川に沿うて四十余里の屈曲を塩屋の浦まで出て、船でどちらへ行くか、または高野領《こうやりょう》を経て西国筋《さいこくすじ》へでも落ちるか、兵馬はそれを測って単身結束してそのあとを追わねばならぬ。
 兵馬が竜神村を立った時も、まだ竜神村の火は消えませんでした。



底本:「大菩薩峠2」ちくま文庫、筑摩書房
   1995(平成7)年12月4日第1刷発行
   1996(平成8)年2月15日第4刷
底本の親本:「大菩薩峠」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2001年5月30日公開
2004年3月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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