ます。
竜神八所を隈《くま》なく探すというのは容易なことではないが――これより遠くへは落ちられないわけがあるから、兵馬は必ずや、この附近で竜之助を見出し得るものと思うています。
そうしてかの七兵衛は、お松をつれて近いうち、ここへ来るはずになっていました。
兵馬は、尋ねあぐんでもなお気を落さない。今宵も、この境内を抜けてみようとするのは気散《きさん》じのためのみではありませんでした。
「お豊、おお、そこにいたか」
といって、いま思案に耽《ふけ》りながら神社の境内を歩いて行く兵馬を、階段の方から呼びかけたものがありました。見れば、旅の風《なり》をした若い町人です。
「おや、これは違いました。はて、お豊はどこへ行ったろう」
その旅の男は、兵馬を尋ねる人でないと知って、手持無沙汰《てもちぶさた》にあちらへ摺《す》り抜けてしまいます。
兵馬は、それに拘《かか》わらず、社内の奥をめざして行こうとして、ちょうどかの大師堂の方へ足をはこぶと、その細道から、意外にもまた一つの人影が出て来ました。それは女でありました。
「おや、宇津木様ではござりませぬか」
女の方から言葉をかけたので、
「おお、これは室町屋の御内儀《ごないぎ》」
その女はお豊でありました。
「どちらへお越しでございます」
「いや、どこというあてもなく、この社内をぶらぶらと、あの奥の森の方まで行ってみようと思います」
兵馬が指したのは、護摩壇《ごまだん》のある修験者の籠る森のことであります。
お豊は、やはり森の方を見上げて、急に不安の色が面《おもて》にかかり、
「あの護摩壇へでございますか。あれは、あそこへは、おいでにならぬがよろしゅうございます」
「何故に?」
「あれは、この土地で、きつい信心をなさる修験者がおりまして」
「修験者が?」
「はい、その修験者が、あれで護摩を焚《た》いておいでなさいます。それ故、あそこへはおいでにならぬがよろしゅうございます」
「修験者が護摩を焚いているから行くなと言われるか」
「はい」
「修法《しゅほう》の邪魔さえ致さねば、近寄っても苦しゅうはあるまいと思う」
「いや、それがこの土地の習いで。強《た》ってあなた様があれへお越しになりたいと思召《おぼしめ》すなら、これから少し参りますると、御禊《みそぎ》の滝というのがございます、その滝壺で水垢離《みずごり》をおとりになって、その後でなければあれへ参れぬことになっておりまする」
「水垢離をとった上で?」
兵馬は小首を傾けて、
「それほどまでにして信心にも及ぶまい」
彼は、その護摩堂へ行くことを思い止ったものらしい。
お豊は挨拶をして、かの階段を下りて行きました。
兵馬は、またそぞろ歩きをはじめたが、ふと思うよう、あの女は、たった一人で何しに、この淋しいところへ来たものであろう――さいぜんの自分を呼びかけた旅の男は、お豊、お豊と、女の名を呼んでいた、或る種の女にはよくある迷信じみた信心から、ここへ夜詣《よまい》りに来たものであろう。
兵馬はこんなことを考えて、社殿の前へ来ました。そこで社殿の背後を見上げるとかの護摩壇の森。そこへは、行ってはならない、行かないがよいと戒《いまし》められてみると、どうも、それだけに不思議があるようだ。そうだ、自分が、この附近で、まだ足を踏み入れぬのはあの護摩壇の森――よしよし、なにほどのこともあるまい、上ってみよう。
兵馬は一文字に森をめがけて進んで行くのでした。無論、かの御禊の滝の水垢離などには頓着せずに――
九
机竜之助が隠れているところこそ、その護摩壇のうしろでありました。
それを隠しておくのは、かの修験者であります。
「御浪人、眼はどうじゃ、眼は」
窓を隔てた次の間から、修験者は、この世の人でないような声で尋ねてみると、
「うむ、よくない、だんだん悪くなるようじゃ」
机竜之助は、肱《ひじ》を枕に、破れた畳の上に身を横たえて、傍《かたわら》には両刀を置いて、こう答えたが、燭台の光で見ると、例の蒼白い面《かお》がいっそう蒼白く、両眼は閉じて――左の眼のふちにはうっすら[#「うっすら」に傍点]と痣《あざ》がある。
「それはいかん、滝の水で洗うて来たか」
修験者は言う。竜之助は答えて、
「さいぜん、滝まで下って行った、どうやら人がいるようだから、やめにして帰って来た」
「ナニ、人がいた? 滝に人がいたか」
「うむ、一人の女が滝を浴びていた」
「女が? 滝を?」
修験者は言葉をきって、何やら考えているようです。
「修験者殿、雨が降って来たようじゃな」
「左様、雨じゃ」
「なんとなく、木の葉も騒ぐようだ、風も出て来たと見ゆるわ」
「おお、風も出て来た」
しばらく静かであって、室外はポツリポツリと雨の音がする、サーッと風の騒ぐ音もする。
「さて、修験者殿……」
竜之助は、やや改まった声で、
「いつまでもこうして御厄介《ごやっかい》になってはおられぬ、拙者は立退こうと思う」
「待て待て、その眼を充分に癒《なお》してからにするがよいぞ」
「治《なお》るかよ、この眼が」
「治る、信心一つじゃ」
「うむ――」
竜之助は、また黙った。
「しかし、その信心ができぬ。拙者にはこうなるが天罰じゃ、当然の罰で眼が見えなくなったのじゃ、これは憖《なま》じい治さんがよかろうと思う」
竜之助は独言《ひとりごと》のように言う、修験者はこれについて返事がない。竜之助が独言のように言った時は、修験者はもう護摩壇に上っていて、それを聞かなかったものらしい。
「眼は心の窓じゃという、俺の面から窓をふさいで心を闇にする――いや、最初から俺の心は闇であった」
竜之助の面には皮肉な微笑がある。窓の外の闇はいよいよ暗くして、雨は相変らずポツリポツリ、風もザワザワと吹いている。
心の闇に迷い疲れた竜之助は、こうしたうちにも、うつらうつらと夢裡《ゆめ》に入る。
ちょうどこの時分は、金蔵とお豊も室町屋へ帰っていようし、宇津木兵馬は、お豊の言い分も肯《き》かず、このほとりへ上って来たはずであるが、雨に恐れて引返したことであろうと思われる。
竜之助は肱《ひじ》を枕に夢に入る――
「おお、何を泣いている、お前はどこの子じゃ」
いたいけな男の子、道の真中に立ち迷うて、さめざめと泣いているのを、竜之助は傍に寄って、その頭を撫《な》でながら、
「泣くでない、お前はよい子じゃ」
竜之助の眼はハッキリとこの子供を見ることができるのを、自分ながら不思議に堪えないで、
「もう、日も暮れる。さ、わしが送って行って上げる、お前の家はどこじゃ」
「坊には家がない……」
子供はしゃくり[#「しゃくり」に傍点]上げて言う。
「家がない? では、お父さんはどこにいる、父親は……」
「知らない……」
子供はやっぱり面《かお》を上げないのです。
「知らない? お母さんは、母親はどこにいる」
「知らない、知らない」
「はて、お前には、家もない、父も母もないのか」
竜之助は、この迷子《まいご》を、どのように扱うてよいのか当惑して、空《むな》しく頭を撫でながら、
「坊や、では、どうしてお前はここへ来た、誰につれられてここへ来た」
「知らない……」
「困ったな、この夕暮に、この淋しいところへ子供をひとり捨て置いて……よしよし、拙者《わし》が里まで連れて行って上げよう、さ、おじさんに抱かれてみろ」
「いやだ、おじさんは怖《こわ》い」
「怖い? 怖いことはありはせぬ、さあ、このおじさんが里まで抱いて行って上げる」
「いや! 坊は、おじさんは嫌いじゃ」
「嫌い? では誰がよいのじゃ」
「与八さんが好き。与八さんが来るまで坊は、ここに待っている」
「ナニ、与八さん?」
竜之助は、この声を聞いて身の毛がよだつようになります。
「坊や、お前の名は何というのだ……うむ、名前は忘れはすまい、言ってごらん」
「坊の名は郁太郎《いくたろう》……」
「ナニ、郁太郎?」
竜之助は摺《す》り寄って、子供の面《かお》に当てた紅葉《もみじ》のような手を振り払ってその面を覗《のぞ》き込もうとすると、
「いや! いや!」
子供は竜之助の手を振りもぎって、あちらへ逃げて行きます。
「お待ち……坊や、お待ち……」
竜之助はそのあとを追いかけて、
「郁太郎……お前の父親はここにいる」
竜之助は大きな声で呼びかけたが、郁太郎は小さな首を振って、
「嘘《うそ》! 嘘! 坊には、お父さんというものはない」
小さい足どりで一散にかける。
「与八さん――与八さん――」
どこかで返事があって、
「おうい、郁坊やあい」
憐《あわ》れむべし、この子、己《おの》れが実の親を厭《いと》うて、あらぬ人の名を慕うて呼ぶなり。
竜之助は立ち止まって、はふり落つる涙を払った手を見ると、涙と思ったのは悉く血だ。
竜之助は立ち尽して、その子の駈け行く方《かた》を見ていると、ノッソリと闇の中から一人の肥え太った男が出て来た。
「おうい、郁坊やあい」
その声は田舎訛《いなかなま》りの言葉であるけれども、なんとも言えぬ慈愛に富んでいる声でありました。それを聞きつけると子供はもう嬉しそうに飛びかかって、
「与八さあん――」
父を知らず、母を知らずと言った児は、父と母とを一緒にしたよりも強い懐《なつ》かしさでこの太った男に抱きついてしまいました。
「おお、郁坊、ここにいたかい、よくいてくれたなあ」
温かい手で、すぐ抱き取って、頬《ほお》ずりをして可愛がる。その面はかがやいて、後光《ごこう》がさして来るようです。泣いていた子供も晴々《はればれ》して、ふいとこちらを向きましたが、竜之助を見ると泣きそうな面をして、
「怖《こわ》い人――あそこに怖い人がいる」
指《ゆびさ》して示すと、抱いていた肥った男は慈愛にかがやく面をこちらに向けて、
「怖い人ではないよ、坊やのお父さんはあの人だよ」
「嘘だ!」
子供は、どうしても承知しません。
「嘘ではない、あの人は坊やのお父さんだけれど、坊やはあの人の傍へは寄れないのだよ」
「でも、坊には、お父さんはないと言ったじゃないか」
「父親《てておや》のない子があるものか……坊やにも、お父さんもあれば、お母さんもあるだよ」
「お母さんもあるのかい……どこにいるんだい」
「それはなあ……」
「早く、そのお母さんのところへつれて行っておくれ」
「うむうむ、つれて行くとも」
抱き上げた子を、ゆすぶって、与八と言われた男は、竜之助の方へ、そのなんとも言えない慈愛の面《かお》を向けて、あちらへ行ってしまおうとするから、
「与八――」
竜之助は、あわただしく呼びとめてみました。
「与八――待ってくれ」
足が動かない――
「与八――郁太郎」
声の限りに呼ぶと、二人の姿は見えずして、光明《こうみょう》の雲が、あたりいっぱいにかがやく。
「与八――郁太郎」
咽喉《のど》が裂けたと思われる時に、夢は覚めた――眠っていた時にありありと見えた人の面が、覚めては見えない。
「誰だ、そこへ来たのは何者だ!」
修験者の地を突《つ》き貫《ぬ》くような叫び。竜之助は何事が起ったのかと思う――誰かこの夜中に、ここへ来たものがあるらしい。雨も風も歇《や》みはしないのに。
十
「誰だい、誰だい――おお痛っ」
金蔵は、しばらく起き上れないで、腰のあたりをさすると、兵馬は丁寧に介抱《かいほう》して、
「お怪我《けが》はないか」
「いや、もう大丈夫。お前さんは……お豊ではなかったね」
起き上れないうちから、もうお豊のことです。
兵馬は傘《かさ》を拾ってやると、金蔵は立ち上って面をしかめ、
「これはどうも――ナニ、もう大丈夫でございます」
お礼もろくろくに述べず、傘を受取ってまたも石段をめがけて上りはじめようとしたが、
「あの、もし、あなた様、この社《やしろ》の中で女の姿をお見かけになりませんでしたか」
「女の姿を?」
「はい、この室町屋の女房のお豊という女を」
「ああ、お豊どのならば」
「は
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