白かったのに怖れたようでありました。思い切って水に浸《つか》っているうちに、不思議なもので、お豊は何とも知れない心強さを感じてくるのであります――この冷たい水の中に、尤《もっと》もまだ秋のはじめで、水が苦になる時でないとはいえ、今までの怖ろしかった心が、だんだんに消えて行って、水の肌に滲《し》み込む気持が何とも言えぬ清々《すがすが》しさになってゆくのでありました。
 頭の中で、ごっちゃになっていた血の筋が、一すじずつに解けて、すんなりと下にさがって来る、いつまでもこの水につかっていたい――こんな気持になるくらいですから、頭の上の木の梢《こずえ》で怪しげな鳥が啼《な》こうとも、滝の水が横にしぶいて頭までかかろうとも、とんと気のつかないくらいにまで心が鎮まってゆきました。
 こうして後、森の中の修験者へ行って逐一《ちくいち》にその身の上を語る。雲のことを語る。そうすれば自分は生れ更《かわ》った身になれることのように思われてきました。
 その時分、この滝壺へ、また左の方のきわめて細い道、この道を伝わって行っても護摩壇へは行けるのであるが、これはここに籠る修験者のほか滅多《めった》に通わない細道から、こちらへ徐々《そろそろ》と下りて来る者がありました。
 白衣《びゃくえ》を着ていることが闇でもよくわかるから、人間には相違ないが、暗い中を手さぐりで、ようようとこっちの方へ向いて来ます。
 そうして、前の弁財天の傍《かたわら》の、ごく細い道のところまで辿《たど》って来たのを、よく見ると、手には何やら杖をついて、面は六部《ろくぶ》のような深い笠でかくし、着物は修験者が着る白衣の、それもそんなに新しいものではないこともわかります。
 この人は、やっと細道を辿って来たのが、ここはやや平らになったので、杖で行手をさぐりさぐり歩みはじめました。
 お豊は、この時も一心ですから、少しもこの人に気がつきませんでした。

         七

 歩んで来た白衣の人は、しばらく、弁財天の小祠《ほこら》の傍に棒のように突立っていました。
 闇の中に白衣ですから、うすら鮮《あざ》やかというほどによくわかります。
「あれ――」
 ようやくに気のついたお豊は狼狽《ろうばい》しました。
「誰かいる――」
 白衣の人は、ほとんど聞えぬくらいの小さな声で呟《つぶや》きました。
 してみると、今までお豊がここにいたことは気がつかなかったので、お豊が狼狽《あわ》てて着物をとりかかろうとしたから、はじめて人のここにいることを感づいたらしいのです。
「誰かいる――」
と小首をかしげた上で、お豊の方に向き直って眼をつけるかと思うと、そうでなく、白衣の人は、そのまま杖で地面を叩き、極めて徐《しず》かに大師堂の方へ小道を辿って行きます。
 お豊は、ホッという息をつき、大急ぎで引っかけた着物の襟《えり》を直してその人の後ろ影を見送るのでありましたが、やっぱり、これはこの山に住む修験者か山伏のなかの一人――自分が今たずねて行こうとする修験者のお弟子かも知れぬ、或いはその修験者かも知れぬ。只人《ただびと》ではない、里の人でないにきまっているけれど、それにしても困ったことであります。
「水垢離《みずごり》の現場を人に見られたら、その功力《くりき》が亡びる」
 これは、やっぱり六助がそう言った。
 そんなら、たとえ修験者であろうとも、山伏であろうとも、人の眼に触れてしまった上は、もうもう水垢離の信心はフイになった――お豊は気が抜けたが、急に腹立たしさが込み上げて来ます。帯を結びながら、その白衣の男のあとを睨《にら》まえて歯噛《はが》みをしたのでした。水につかっていた時の心強さも清々《すがすが》しさも無残に塗りつぶされた業《ごう》のつきない身体《からだ》。清浄に返る懺悔を妨げに来た天魔と、白衣の人を、お豊としては怖ろしいほどの形相《ぎょうそう》で見つめていると、気のせいか、その笠から洩れる背丈《せたけ》、恰好《かっこう》、ことに肩つきや、身の聳《そび》え、たしかに覚えのある姿であります。
 この時、お豊の頭脳《あたま》のなかにきらめ[#「きらめ」に傍点]いたものは、ほかでもない人相書。あの人相書のことを忘れていたのは、いま水につかっていた間ぐらいのものです。
 その、背丈、恰好、肩つきや、身の聳えを見て、俄然として醒《さ》め来《きた》ったお豊の眼に展開さるるは机竜之助。いや、机竜之助の名は知らない、その変名の吉田竜太郎で、頭蓋《あたま》の上から踵《かかと》の下まで貫くほどに覚えている。
 お豊は、二足三足、小走りにして、追いかけたくらいでしたが、
「もし――」
「ナニ……」
 先へ行く白衣の人は、お豊に呼びかけられて、すっくと立ってしまいました。
「あの、あなた様は……」
 お豊は、白衣の人の突いた杖にすがるほどに近寄って、下から笠の中をのぞき込むくらいに見ましたが、
「護摩壇《ごまだん》の修験者様ではござりませぬか」
 吉田とも竜太郎ともたずねてみなかったのは、もう一ぺん、声音《こえ》を聞いてみたかったからです。
「いいや、修験者ではない」
 もう充分である、修験者でなくてもよい、誰でなくても、その声の持主であればよいのである。
「それでは、あの吉田様……」
「吉田?」
 かぶっていた笠がこころもち揺《ゆら》ぎます。
「竜太郎様――」
「竜太郎?」
「あの三輪の植田丹後守様においでになった――」
「三輪の植田丹後守?」
「間違いはござんすまい」
 お豊は、その白衣の袂《たもと》に縋《すが》らんばかりに取付いたのでしたが、白衣の人は動かず。
「違う、拙者は吉田竜太郎とやら、そんな人は知らぬ」
「まあ、知らぬとおっしゃいますか――」
 疑うべからざるものを疑う、お豊は、しばし取付端《とりつきば》に迷いました。
「そなたは女子《おなご》のようじゃが、誰じゃ、どなたでござる」
「お忘れになりましたか、豊でございます。三輪の薬屋におりました……」
「豊……お豊……」
 白衣の人の姿勢はこの時くずれた。
「うむ、その声に違いはないようじゃ、珍らしいところで会った」
「ああ、左様でござんしたか」
 お豊は、その人にすがりつくように身をその足許《あしもと》に投げたのを、白衣の人、すなわち机竜之助は、徐《しず》かにその手で受けたが、二人が面《かお》を見合すべく、木《こ》の下闇《したやみ》は暗いし、よし日と月がかがやき渡っても、竜之助はおそらく昔の眼でこの女を見ることはできまい。
「まあ、あなたは……」
 お豊は何から言い出して、あの驚き、喜び、つづいて来る怖れを表わそうかを知らないのであります。
 竜之助は、よりかかるお豊の身を両手に受けたが、何を思ったか、遽《にわ》かに振り放つようにして、
「危ない、このまま別れよう」
 背を向けて、そうして杖で徐《しず》かに地を叩いて歩み出そうとします。
「どうぞ、お待ち下さい」
 お豊は、あわててその袂を捉《とら》えて、
「なぜ、そのように情《つれ》なくなさいます、あなた様のお身の上もお聞き申さねばならず、私の身の上もお話し申し上げねばなりませぬ」
 それでも竜之助は振返らない。
「いや、こうしているのはあぶない、拙者の身も、お豊どの、お前の身も」
 相変らず寒の水が石を走るような声です。けれども、その冷たい声が今以てお豊の腸《はらわた》に沁《し》み込むようです。
「それはよく存じておりまする。あの、あなた様は十津川からこちらへお落ちなすったのでございましょう」
「うむ――」
「そうして、あの、あなた様のお名前は、吉田竜太郎さまではございますまい」
「…………」
「机竜之助様とおっしゃるのでございましょう」
「それが、どうして知れた」
「もう、人相書が廻っておりまする」
「人相書が?」
「紀州のお役人や、藤堂様のお侍などが、毎日、あなた様をたずねておりまする」
「それ故、あぶないと申すのじゃ」
 竜之助はまた杖を取り直します。
「まあ、待って下さい」
 お豊は竜之助の行手にふさがるようにして、
「それに、あの、あなた様を兄の仇じゃと申して覘《ねら》っているお方がありまする」
「兄の仇? そんなことは……」
 なんと言っても動かない声で、ふっつりと言い切って、行こうとする方へ歩み出すのを、お豊は、その杖を奪うようにして、
「竜之助様、あなたは、あの時のお約束をお忘れはなさりますまい、わたしをつれて、江戸へ落ちて下さるあのお約束をお忘れはなさりますまい、あの時のお約束通り、江戸へつれて逃げていただきたいのでございます」
「江戸へ逃げたい?」
 竜之助の面《かお》の表情は、笠でまるきり知れないけれども、その声は、キリキリと厚い氷を錐《きり》で揉《も》み込むような鋭い嘲《あざけ》りをも含んでいるのであります。
「わしと江戸へ逃げたい? お豊どの、お前は亭主持ちのはずじゃ」
「ええ……」
 お豊は竜之助の前へその事情を自白しようとするところでした。それをどうして竜之助が知っていたのか、先《せん》を打たれて驚き且《か》つ狼狽しました。
「それは余儀ない事情でございます……」
「余儀ない事情?」
「あなたは、あなたには、わたしの心がわかりませぬ……」
「わからぬ」
「どうぞ、下にいて、ここへおかけなすって、わたしの苦しい事情をお聞き下さいまし」
 お豊は手近の岩の上を払って、竜之助の手をとってそこへ腰をかけさせて、
「竜之助様、おっしゃる通り、わたしはいま亭主持ちでございます……この温泉宿の金蔵というのが、わたしの夫でございます……その金蔵というのは、西峠の原で、わたしたちに鉄砲を打ち掛けた悪者でございます、その悪者のために、わたしは自由にされているのでございます……口惜《くや》しゅうございます。それはみんな、伯父のためや、植田様のためでございます。わたしが自由にならなければ、あの乱暴者は伯父様や植田様まで鏖殺《みなごろし》にし、三輪の町を焼き亡ぼすと言っているのでございます……竜之助様、どうぞ、人のために忍びきれない恥を忍んでいる私をかわいそうだと思って下さいまし、一目、わたしを見てやって下さい、わたしにも、あなたのお面《かお》を見せて下さいまし」
「見えない、見えない」
 竜太郎は面をそむけて、
「拙者の眼は見えない」
「エエ!」
 お豊は、それを真事《まこと》として聞かなかったが、この時、
「お豊――お豊――」
 遥かに呼ぶ声は、階段の下に待たしておいた金蔵の声であります。

         八

 宇津木兵馬もまた、この夜、宿を出て、ただひとりこの竜神の社内へ出て来たのであります。
 今日で、この地に留まること三日、まだ机竜之助の在所《ありか》がわからない。
 十津川で山小舎《やまごや》が爆発した後、中にいた十人の浪士の運命は悉くきまったけれども、竜之助一人の行方だけがわかりませんでした。しかし、落ち行くところは必ずや紀州竜神――竜神は昔から落人《おちうど》の落ち行くによい所であります。
 源三位頼政《げんざんみよりまさ》の後裔《こうえい》もここに落ちて来た。熊野で入水《じゅすい》したという平維盛《たいらのこれもり》もこの地へ落ちて来た。ずっと後の世になっても、乱を避け世を逃れた人の言い伝えが土地の古老の話に聞くと幾つも残っているのであります。
 兵馬は十津川から追いかけて来る間、山中の杣《そま》に聞くとこんなことを言いました――ある夜、一人の武士が、この山間《やまあい》の水の流れで頻《しき》りに眼を洗っていた。最初は水を飲んでいるのかと思って、よく見たら、幾度も幾度も眼を洗っていたのであった。杣と聞いて安心し、竜神へ出る道をよくたずねて、覚束《おぼつか》ない足どりで出かけて行った……
 たしかにそれ。そうしてどこかに負傷している。眼を洗っていた――かの火薬の烟に眼を吹かれたのでもあろうかと、兵馬は直ちに想像しました。
 兵馬はこれに力を得て、息もつかず竜神まで追いかけ、さまざまの人の手を借りて、今日まで三日さがしたけれども、更にその行方が知れないのであり
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