かお》を見ていると、酒井は、
「それに比べては僭越《せんえつ》であるが、建武《けんむ》の昔、楠正成卿が刀折れ矢尽きて後、湊川《みなとがわ》のほとりなる水車小舎に一族郎党と膝を交えて、七|生《しょう》までと忠義を誓われたその有様がどうやら、この場の風情《ふぜい》と似ているではないか」
「いかにも……」
「もはや、いずこへ落ちたとて袋の鼠、飢え疲れて名もなき者の手にかかり、縄目の恥なんどに遇《お》うて、先輩や同志の名を汚すはこの上もなき不本意、ここらで落着いて、武士らしい最期《さいご》を遂げようではないか」
「尤《もっと》も……」
 一同は更に異存がない、異存らしい面色もない。死すべきところに死ななければ、死せざるに勝《まさ》る恥があるということの分別はいずれも人後《じんご》に落ちないものであったから、彼等は死を争おうとも、それに異議を唱《との》うるものが一人もあるべきはずがない。一座が無言にして沈黙の重きに圧《お》されたのは潔《いさぎよ》き同意の表白であったから、言い出した酒井賢二郎も満足して、
「御同意で忝《かたじけ》ない。ただし、これは強《し》いては申さぬこと、なおまた万死を賭《と》
前へ 次へ
全85ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング