先触れを出しておいて、不意に浪花《なにわ》へ行く策略であったがな」
「彦根の間者が早くもそれと嗅《か》ぎつけて、大軍でおっ取り囲んだ――吉村殿と、安積《あづみ》五郎殿が一手を指揮して後方の敵に向うている間に、藤本、松本の両総裁が前面の敵を斬り開いて、中山卿を守護してあの場を落ち延びたが、さて危ないことであった」
「そこを落ち延びると、忽《たちま》ち紀州勢が現われて藤本殿はあわれ斬死《きりじに》じゃ。悼《いた》ましいことではあるが、その働きぶりは、さながら鬼神のすがたであった」
「その日の夕暮、またも行手に大敵が現われて、松本総裁は牧岡氏《まきおかうじ》と池氏とに後を托《たく》して、中山卿を守りて長州へ落ちよと申し含めて、自身は大敵の中で見事な切死《きりじに》」
「さてさて、天命是非もなし、我々こうして永らえているも、一《いつ》に中山卿の安否が知りたいため」
「それも、どうやら望みが絶えたわい――」
このなかでは最も重い、組の監察をしていた酒井賢二郎が言い出でた一語は沈痛に響きました。それは絶望の叫びであって同時に覚悟の決定を促《うなが》すように聞えたから、一同は暫らく無言で酒井の面《
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