あたりが引きつり、呂律《ろれつ》が怪しい、よほど飲んで来たものです。
「お前様のおっしゃるには、わしの女房のお豊は、うちへ帰っているはずでございますが、まだ帰っておりませんぜ」
「なに、御内儀《ごないぎ》が……」
 兵馬は金蔵の言いがかりぶりが無礼に見えるので、少し向き直り、
「まだお帰りがない? 拙者は、あの社内《やしろうち》でちょと会うたばかりだからその後は知らぬ」
「いったい、お豊のあま[#「あま」に傍点]は、何のために、この夜中《やちゅう》に、あの社内へ出かけたものでござんしょうねえ、お武家様」
「何のためとは」
 兵馬が、そんなことを知るはずはないのを、金蔵はからみつくように、
「お前様は、それを御存じであろうと、わしはこう睨《にら》んだのだ」
「なんと、拙者がそれを知っている?」
「そうでございます、あの、人も行かない淋《さび》しいところを、この夜中に、つまり人眼を忍んで、行きつ戻りつなさったのは、うちのお豊と、それからお前様のほかにはない」
「うむ」
「ですから、わしは、お前様とお豊とが、しめし合せて、なにか人に聞かれて都合の悪い話を、あそこで、おやりなすったものとこう思
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