い」
「さきほど、この石段を下へおりて行きました」
「石段を下へでございますか」
「いかにも」
「そんなら、行違いに家へ帰っておりはせんか」
金蔵は上りかけた足を石段から引いて、
「それでは、帰ってみましょう」
もと来た方へ引返して大急ぎで駈けて行きます。
兵馬は、そのあわただしさに笑いを禁じ得なかったが、そんなことは別に兵馬の気にかかることではない、気にかかるのはあの護摩壇のことだ――堂の傍へ近寄ると、中から修験者の声で、
「何者だ!」
と呼ばれたが、強《し》いて土地の人が神聖と立てる修法《しゅほう》を妨げるのもよくないと、帰っては来たが、なんとなくあの護摩壇に心が残るようだ。よし、改めて修験者に会ってみよう。
こう心をきめて室町屋まで帰って来ると、家は思いのほかヒッソリしていました。雨が降っているから、障子を立て通しにしてあったのをあけて入ると、帳場のわきに金蔵が苦《にが》り切って坐っている、その傍には番頭がピリピリして跪《かしこ》まっている。
「お帰りなさいまし」
と言ったが張合いのない声でした。苦り切った金蔵と兵馬とは、ふと面を見合せると、兵馬は、いま石段から転げ落ちた
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