らを向きましたが、竜之助を見ると泣きそうな面をして、
「怖《こわ》い人――あそこに怖い人がいる」
 指《ゆびさ》して示すと、抱いていた肥った男は慈愛にかがやく面をこちらに向けて、
「怖い人ではないよ、坊やのお父さんはあの人だよ」
「嘘だ!」
 子供は、どうしても承知しません。
「嘘ではない、あの人は坊やのお父さんだけれど、坊やはあの人の傍へは寄れないのだよ」
「でも、坊には、お父さんはないと言ったじゃないか」
「父親《てておや》のない子があるものか……坊やにも、お父さんもあれば、お母さんもあるだよ」
「お母さんもあるのかい……どこにいるんだい」
「それはなあ……」
「早く、そのお母さんのところへつれて行っておくれ」
「うむうむ、つれて行くとも」
 抱き上げた子を、ゆすぶって、与八と言われた男は、竜之助の方へ、そのなんとも言えない慈愛の面《かお》を向けて、あちらへ行ってしまおうとするから、
「与八――」
 竜之助は、あわただしく呼びとめてみました。
「与八――待ってくれ」
 足が動かない――
「与八――郁太郎」
 声の限りに呼ぶと、二人の姿は見えずして、光明《こうみょう》の雲が、あたりい
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