そ》! 嘘! 坊には、お父さんというものはない」
小さい足どりで一散にかける。
「与八さん――与八さん――」
どこかで返事があって、
「おうい、郁坊やあい」
憐《あわ》れむべし、この子、己《おの》れが実の親を厭《いと》うて、あらぬ人の名を慕うて呼ぶなり。
竜之助は立ち止まって、はふり落つる涙を払った手を見ると、涙と思ったのは悉く血だ。
竜之助は立ち尽して、その子の駈け行く方《かた》を見ていると、ノッソリと闇の中から一人の肥え太った男が出て来た。
「おうい、郁坊やあい」
その声は田舎訛《いなかなま》りの言葉であるけれども、なんとも言えぬ慈愛に富んでいる声でありました。それを聞きつけると子供はもう嬉しそうに飛びかかって、
「与八さあん――」
父を知らず、母を知らずと言った児は、父と母とを一緒にしたよりも強い懐《なつ》かしさでこの太った男に抱きついてしまいました。
「おお、郁坊、ここにいたかい、よくいてくれたなあ」
温かい手で、すぐ抱き取って、頬《ほお》ずりをして可愛がる。その面はかがやいて、後光《ごこう》がさして来るようです。泣いていた子供も晴々《はればれ》して、ふいとこち
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