、これは室町屋の御内儀《ごないぎ》」
その女はお豊でありました。
「どちらへお越しでございます」
「いや、どこというあてもなく、この社内をぶらぶらと、あの奥の森の方まで行ってみようと思います」
兵馬が指したのは、護摩壇《ごまだん》のある修験者の籠る森のことであります。
お豊は、やはり森の方を見上げて、急に不安の色が面《おもて》にかかり、
「あの護摩壇へでございますか。あれは、あそこへは、おいでにならぬがよろしゅうございます」
「何故に?」
「あれは、この土地で、きつい信心をなさる修験者がおりまして」
「修験者が?」
「はい、その修験者が、あれで護摩を焚《た》いておいでなさいます。それ故、あそこへはおいでにならぬがよろしゅうございます」
「修験者が護摩を焚いているから行くなと言われるか」
「はい」
「修法《しゅほう》の邪魔さえ致さねば、近寄っても苦しゅうはあるまいと思う」
「いや、それがこの土地の習いで。強《た》ってあなた様があれへお越しになりたいと思召《おぼしめ》すなら、これから少し参りますると、御禊《みそぎ》の滝というのがございます、その滝壺で水垢離《みずごり》をおとりになって
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